世界は称賛に値する

日記を書きます

ツイッター言葉のねじれ

▼▼話す時は相手の目を見て話すとよい、といった指針の常時信奉者でもないのだけれど、Twitterのタイムライン上だと、言葉は、フォロイーに向けて発せられ、けれど、受信するのはフォロワーである、といった「ねじれ」があるなあ、ということは気になる瞬間があって──普段あんまり意識できていないな、と気づける瞬間があって、この「ねじれ」を「歪み」とか「断絶」とか認識してしまい、あんまり好きじゃないかも、って思うこともあるのだけど、とはいえ、素敵なところ、面白いところ、新しいところ、好きなところ、とも、場合によっては思えているかな、とも思った。

『ラ・ラ・ランド』を観ました

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▼▼好きだ。図抜けて好きな映画であった、と言ってよいかは曖昧なのだけど、印象深さは色濃かった。おそらく記憶からは消えないだろう。想像の埒外から、突然、飛び込んでこられて、痺れるような快楽に溺れているような時、よりも、余程好きなんじゃないかなあ、という気もした。物語の流れに特別な軋みはなく、強い負荷もないまま、楽しく観ることができたと思う。でもって、素直とも言えるであろう物語の流れを素晴らしいものとして押し上げていたのが、音楽だった。音楽と映像の噛み合わせかたがほんとうに素晴らしかった。演出が好きすぎるぞ……、と思うことが多かった。驚くほど繊細な調整があるんだろうと思えて、驚愕する場面も、多々あった。創作活動に関する物語は基本的に好きなので、基本軸として、好き、と言えてしまうところもあったかと思うのだけど、とはいえ、繊細で華麗な音楽演出が、その好きさを、輝かしいものとして編み直してくれているところがあった。
▼▼ライアン・ゴズリング、かっけえなあ、と惚れ惚れしながら観ていた。主演二人が出会って親しくなるまでの会話や行動も大変好みだった。終幕間際の、夢見るところ、夢世界の演出、スゴイ、と思った。

「ラ・ラ・ランド」本予告

概念を素早く(希望)

▼▼各自の職業や職務にまつわる雑談をしている(最近、仕事、どう?)ような時に、おのおのが抱えている「職種にまつわる専門用語」が思いのほか異なっていて──おのおのの中から自然体のままで出てくる「独特の言葉」がだいぶ耳慣れなくて、普段の生活の影響によってこんなふうに言葉遣いが変わるのだな……と、驚いたりすることがある。ある専門用語が頻出する環境である、ということが、こんなふうに「言葉や概念を取り扱うにあたっての自然さ」に影響を与えうるんだな、って思ったりする。見慣れて耳慣れて使い慣れることにより、こんなふうに「理解が素早く」なれるのだな、って思う。理解に一瞬の間を要する(時には「少し考える」必要さえある)あの「少し遠い」概念も、馴染んでしまえば、慣れてしまえば、こんなふうに「素早く」扱えるようになるのか……、と、ぼんやり希望を持てたりもする。

最も好きな物語を書いた人が最も嫌いな人だったら、という思考実験(って思考実験、人格分裂や異世界みたいな複雑な思考実験並みに脳が混乱するぞ……、と思えた)

▼▼作家と作品は別である、と認識するよう促してくれる言説は時々あって、賛同もあるし異論もあるのだけれど、最も好きな物語の書き手が、最も嫌いな人だった場合、というのがあとから判った場合──、というふうに思考実験をしてみて、気持ち、感情、判断や認識の改訂のしかたや安定性、などなどの「制御」について考えてみたら、かなり大変なことになる気がしたので、やっぱり別認識できるようにしておいたほうがよさそう、というか、混乱しないよう多少は整理整頓しておいたほうがよさそう、と思えたりはした。

戴く拡がり

▼▼懐かしい目線か、新しい目線が、日記の言葉によって、引き出される。誰かの「日常の描写や説明」が、頭の中に響き渡って、懐かしいものを、新しいものを、うまく、引き摺り出してくれたりする。夏の話、風の話、嫉妬の話、整頓の話、お菓子の話、等々をうかがいながら、この言葉がくれる光景はよい拡がりだな、とは、頻繁に思っている。