世界は称賛に値する

日記を書きます

ほかの業種、文脈から(ほかの業種、文脈を踏まえられる、という感覚)

▼▼越境的に、ほかの業界からやってきたことによって、異質な文脈、新鮮な常識、特殊な感性、変梃な技術、が持ち込まれて、運よく程よく活かされて──うまく働いて、結果的に、非常によいものが出来る──出来上がっている、ということが、時々はあるかと思うのだけど(でもって、だいぶ好きな状況なのだけど)、こういった状況の中にある「こことは異なる業界のことを、一通り知っています、あるいは、詳しく知っています、だから、活かせますよー」という(と思えるだけの)自負、自信、のことについて、数日前に考えていた「ここに一家言ある、という自認、って、あやうそうで、でも、とはいえ、やはり頼るのがよさそうだし……」という切り口を重ね合わせながら、考えていた。


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▼▼あいかわらずボードゲームが非常に好きなわけだけれど、うーん、例えば、ボードゲームをじぶんで作ってみよう、と思い立ったような時に、ボードゲームとは異なるところの、こういう場や空間のことについては、まあまあ詳しい(と思えている)から、ここを活用して応用して悪用して、作ってみようじゃありませんかー、って思える瞬間が、当然あったりすると思う──思うのだけど、こういう時の「このあたりの知識を、まあまあ活かせるだろう」「手に余る、という感覚はなくて、つまり、コントロールできそう、と想定できる」「利点や美点を把握できているので持ってこれるだろう」とか思えてしまうことの、怖さおよび大切さのことを、改めて整理せんとしていたのだった。

目のコントロール

▼▼目、眉間やまぶたや目尻、付近の、筋肉のコントロールによって、気分がおおきく変わるなー──ほかのところより影響がおおきそうだ、というのを、最近、富に感じる。冷酷に睨み付けるのと温かく見守るのと静謐な目で無心無関心を貫くのでは、ぜんぜん感覚が違うんだな、と思う瞬間が増えた。こんなに変わるんだ、と驚いたりしている。ここを変えればよいのか、と判断し、変えようと決意してみせることによって、調整が可能っぽいぞ、可能になる範囲がおおきいぞ、ということを、思ったりもしている。
▼▼気分を調整したくなって、目がけっこう影響与えているな、って思う。思いたくなる場面が多い、ということでもあるんだろう。
▼▼最近は、なんか、改めていろいろと「楽しく」したい雰囲気がある。解釈し直し、をけっこう頻繁に試みている。加齢および経験により、人類の意識や感性、判断、等々に関しての情報量が増えすぎてしまい、情報処理が間に合わず、溢れてしまっているところがあって、混乱や混線もだいぶあって、なんとなく、真っ直ぐ楽しみきれなくなっていたところがあったのだ。ということの、再調整を、最近は志している。溺れないように整理し直してみたらわりと綺麗に片付けられそう、という予感もあったりはしている。

因果・論理・意味や価値

▼▼人間が物事を見た時に、因果を「視」てしまう、言葉に論理を視てしまう、意味および価値を視てしまう、といった認知機能について、ぜんぶ同じ「眼」の別側面の話なんじゃないかな、って感じることがあるのだけど、うまく言語化できていないな、って思ったりもしつつ、ぜんぶ「繋がり」を視る、ってことか、って思いついたりもした。

記憶をなくしてもう一度

▼▼記憶をなくしてもう一度最初からこの物語や作品に触れたいぞ、とか思うことがけっこうよくあって、けっこうよくある(と言っても年一回~年二回くらいな気がするけど)、ということが「記憶がない状態で出会う」ということが繰り返されている証左だろ、と思ったので、幸せなことだ、と結論した。

まったく同じ意味の単語を人類は存続させられなそう

▼▼類義語や対義語を観察してるのがだいぶ好きで、趣味、って言えそうな雰囲気なのだけど、類似や対立ではなく「まったく同一の意味の単語」というものを、製造する力(というか維持するチカラ)が、人類にはなさそうかも、って、ふと思った。
▼▼同一の意味を持つもの、として、ある言葉をまず作ってみたり位置づけてみたりしたとしても、見た目、音韻、辿ってきた経歴や使われた場面、とかを活用して応用して悪用して、ほのかに異なったニュアンス、若干のズレを際立たせる使いかた、を、いつしか持ち出し始めてしまう癖を、人は、持っている印象がある。


▼▼人は、単語に対して、広義と狭義、的なものをいつだって求めていて、だから、同一の意味の単語がもし目の前にあったとしたなら、片方に広義を、片方に狭義を、背負わせようとしてしまう──同一だったはずの二つの言葉を、少しずつ異なるほうへ進ませてってしまう、ような、習性がある──、というような想定かなー。


▼▼単語X、と、単語Xと同一の意味を持つ単語エックス、があったとするなら、普段は単語Xを使っておいて、特殊な事例の時に──厳密な話がしたいとか読み手の気を引きたいとかそういった状況の時にのみ、単語エックスを使う、っていうようなやりかたがありえて──無意識にそういうことをしてしまっていることもありうると思えていて、人類というのはわりと、そういうテクニックを沢山使ってきてる気がする、のであった。ちょっとした変化、違和感、新鮮味、を、複数単語の境界線に、背負わせる、という切り口とやりかただ。▼▼まあ、このあたりの言葉の拡がり(わりと勝手な拡がらせかた)が、知性に貢献しているところもありそうかな、と思う。