世界は称賛に値する

日記を書きます

絵で、音で、物差しは描けない

▼▼(昨日書いた)物差し的な話、というのは、言葉で書く媒体でしか具現化できないところがおそらくあると思っていて、つまり、音楽や絵画で「こちらのほうがよいじゃん!!!」と訴えるのは難しそう(不可能?)であり、なんか、この違いって凄いなあ、と思うと同時に、このあたりのことに触れている言説(音楽や絵画の特別さの話)なんかを見かけた時に、素敵な発想だなあ、と思いがちなところがあるのであった(あんまり思いつかない(思いつきたいのに思いつけない)境地なのである)。
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物差し的判定の脳裡を書かない(じぶんは書いてしまうほう)

▼▼好きだとか正しいとか善い/良いとか、適切だとか効果的だとか合理的だとか、極と極に分けて話すことが──推奨側と非推奨側に分けて話すことが、つまり「物差しの話をしながら」話すことが、やはり多くて、日記っていうのはやっぱり物差しの話に吸い寄せられていきがちなのかなー、なんてふうに思いつきつつ、単なる情景描写、構造説明、を残しておくことも、当然、可能なはずであり、でもまあそれを主にしていない(しようと思いついていない)以上、じぶんの趣味嗜好がこちら、ということではあるのか……、ということを、思ったりした。
▼▼端的な、構造や情景の、記録、にとにかく惹かれる、精神、感性、世界観、というものをシミュレートしてみるの、面白そうだなー、っていうのも、思った(惹かれていてとにかくそれが書きたいのだ、という欲求持ちと、書いておいて意味があるのなんてそれくらいだろ、と判断を下すような意識のありかたと、時間なり手間なりの問題で書けるのがそれくらいなので最低限それを書いている、というような状況の問題と、いろいろありそうではあるけど)。時々そういう日記を静かに書いている人も見かける気はする。

人生の難題、ひとつながり

▼▼じぶんにとっての、人生の難題というか、世界の大問題というか、意識と認識の引き寄せられるところ、といったような物事を、しげしげじっくり、丁寧に見取ろうとしてみせた時に、中心に来るであろう問題のまわりに、それにまつわる──それに関わる、様々なものが──細々としたものが、付随してくるように思う。してくるんじゃないかな、と思える。達成したいことや欲するもの、理想像と経験則、苦手なこと、嫌な記憶、なぜか気になっちゃうこと、苛立ってしまうこと、などなどがごろごろくっついた、塊魂が、まあ、思い浮かんでくる気がする。
▼▼綺麗なまんまるが「ぼくの大問題」として顕れることってなさそう、というか。


▼▼という、問題ひとつなぎ、認識ひとつなぎ、が、おのおのの人間で異なっており、こういうところの違いが、価値観や人生観、意見、の齟齬、として立ち顕れてくるんじゃないかなあ、というようなことを、思ったりする。ので、ぼくにとっての大問題、世界や人類、人生、あるいは、日常、自我、家族、仲間、社会、歴史、などなどを背景にした、気になっちゃうものたちの、合成物、キメラ、みたいなものを、無茶苦茶に、ぐちゃぐちゃに、粗出ししてみるのもよいというか、出せるだけ出すのもよいのではというか、変に整理や区分しないで出してみることも、また、大切だったりするんじゃないだろうか、いやせめて、時々はアリなのでは、というようなことも思ったりもする次第であった。


▼▼大問題認識が、どこまで繋がっていってしまうか、拡がっていってしまうか。▼▼ここの「繋がっちゃうし拡がっちゃう」を、判りやすさや使いやすさを意識して変に切り分けてしまうと、なんか、問題の生鮮さが死ぬのでは、という印象があるのだ。

機能と性能、機能と機構

▼▼機能と性能は類語かな……(類語な気がする)、機能と機構は類語かなあ?(類語と言える整理じゃない気がする)、と思って、文字が似てる、同じ漢字を使っている、というだけで、類語の匂いを嗅ぎ取ってしまうようなことがあるな、というのも思った。
▼▼機構、というか、構造とか形状といった物理的なものと、物理的なモノから人間に向けて出てくる──人間によって読み取られる、機能、効果、便益や害悪、価値、規則、意味、雰囲気、接しかたや扱いかた、奉られかたや厭われかた、といったもの、の、整理整頓には、まだまだけっこう強い混乱がある。あるなあと思った。


▼▼類語辞典に出ているようなものではない、個人的な経験、個人的な観測、個人的な世界観による、言葉の類似、概念の類似、というものが、その人の観点や視座を、つまりは眼差しを、既定してるんじゃないかなー、基礎や枠組みになってるんじゃないかなー、というようなことを、考えていた、のだった。当初は考えていた気がする。

ツインテールの日

▼▼内輪話を無関係な人に聞かせてもツマランだろ、とか、お前の個人的な好みの話なんか聞かされてもツマランぞ、とかいう言説が時折あるけれど、対象物を、個別認識や個体認識し始めて、文脈を知ったり近況を知ったりして、まあつまり、親近感を覚えられるようになったりしたら、楽しくは、なったりする。するよなあ、とよく思っている。
▼▼閉じた話、狭い話、内輪の話、が、閉じてることや狭いことを理由に、つまらん、とツッコまれている情景なんかを見た時に、うーん、けどでもまあ、相手によっては、内輪話、閉じた話や狭い話を、むしろ聞かせてよー、と思ってしまうこともあるからなあ、なんというか、「閉鎖的」「個人的」というところから「身近さ」を見取って「親近感」に繋げていくルートを通りたくなるような局面ってけっこうあるしなあ、なんて思うことがあるので、閉鎖的で個人的で無関係、というようなことに向けて、あんまり冷たいことは言えないところがあるよなあ、とか思っているところはあるのだった。


▼▼というような、聞きたさ、聞きたくなる相手がいること、というところから、だったらじぶんも多少は積極的に言ったほうがよい(言ったほうがよい、と判断しておいたほうがよい)のかなー、なんてふうに迷うこともあって、というのと同時に、内輪的閉鎖的個人的なことで、でもまあ、言ったらもしかしたら面白いかも……、話として単純にウケるかもしれないし、話の拡がりとしてウケてゆくことが期待できるかもしれないし、とにかく、言っちゃおうかなー、なんてふうに思えた時に、内輪的閉鎖的個人的な話を、あえて繰り広げることの、是非、に目を向けることあったりもして──。
▼▼というところまで考えてきて、些細なことでも聞きたくなる親愛性の話と、面白いと思ってもらえるかもしれないから(ウケであろうことが想像できるから)言っちゃえみたいな話、混ざってない??? って雰囲気になってきた。混線してる気がする。
▼▼(内輪的閉鎖的個人的、些細な話、という区分の中で)これを言ってみたら面白いのでは? と思った時に(よいものなのでは、と判断した時に)、同時に湧いた「世に出す、ということに対する不安」を、払拭したくなってしまい、人様の個人的な話を聞きたい人もいるからね、ということを持ち出すのは、ズルだ、ズレだ、って思ったのだった。


▼▼思考の発端、文章の動機、が、今日2月2日はツインテールの日であり、ツインテール好きなんすよねー、っていうことを書くかどうか、というところにあったため、なんかこう、そのことを見つめながら書くことになって、なんだこの(思考時、執筆時の)目の動かしかたは……、ってなった。面白かった。


▼▼不安を生んでいるロジックを誤魔化すために別のところからロジックを持ってきて打ち消そうとする行ない、というのは、けっこう好きなほうである。解明して曝こうとするのも好きで、まあ後者のほうが好きなので、後者のほうをよくやりがちだけど、前者を撲滅しようとするような精神ではない、かな。ということを最後に思った。