世界は称賛に値する

日記を書きます

理解刺激と感情刺激(この概念並置、たぶんズレているけど)

▼▼物語的な面白さと学問的な面白さ? 娯楽的刺激と知的刺激? 感情や感覚にまつわる気持ちよさと理解にまつわる気持ちよさ?


▼▼物語だって学問的側面を持つだろうとか、逆に、学問だって物語的な側面を持つじゃんとか、娯楽と知性が対立するとでも?とか、理解だって感情の一部なのでは?とか理解による感情の動きだってあるでしょうが……とか、まあいろいろ言えるわけで。うまく並置させることができないではいるのだけど(こういうところで踏ん張って考え抜く、という行動が、言葉の適切さ、妥当さ、深み、渋味、洗練、プロフェッショナル、などなどの概念に繋がったりするのだろうけど──ほんとうに適切であろう単語を「辞書的に」探してみせることが、けっこうな確率で、言葉に対する真摯さや言葉の価値や権威に繋がったりする気がする……、と認識してはいるのだけど)、ともあれ、小説などにわくわくしている時と理論なんかにわくわくしている時じゃ、やっぱり、頭の中で明滅しているものや明滅してる位置って、少し違うよねえ? ということを思ったので、ここを別物として認識して、上位下位を決めつけて褒めたり貶したり、あるいは好き嫌いを表明したり、することは、そりゃあるか、と改めて思ったりはしたのだった(合ってるか、納得できるか、は別)。

聞いてる見てるボードゲーム談話(動画とポッドキャスト篇)

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▼▼様々な場所で行なわれているボードゲーム談話を、極めて楽しく聞いている。好きな空間が増えすぎて飽和気味ですらある。全体像を見失っている雰囲気があるかな。一回整理しておいたほうがよいだろうと思った。あとあとになって見返した時に楽しめるものになるだろうなとも思う。敬愛を表明をしておくことが重要だ、続いて欲しいと思っているならなおさら、というのもあるし。
▼▼ボードゲームリンク集的な形状でまとめればよいかな、と最初は思ったのだけど、改めて調べてみたら、ボードゲームリンク集ってけっこう沢山あったので、リンク集という形状を目指すことはなさそうだ、という気分にはなった。あくまでじぶんが、現在、習慣的に聞いている/楽しみにしている、談話の、まとめでよさそう。


▼▼動画、ポッドキャスト、ブログや文章系感想サイト、と切り分けできるのではないかな。無論、複数の空間にまたがっているものもある。ボードゲーム周辺ではポッドキャストがなんとなく盛んである。理由については試行錯誤を重ねてみたことがあるけれどよく判らなかった。▼▼ボードゲームに嵌まるまではあまり聞いていなかったポッドキャストという媒体だけれど、最近はラジオ的な風情で飄々と聞いている。


▼▼ブログ・文章系感想サイトはちょっとほんとうに多かったので、別でまとめることにして、まずは動画とポッドキャストから記録していく。

動画

【UDATSUわくわくドイツゲーム実況】
・人狼を含めて、アナログゲーム欲が明確になった契機の一つ。シーズンに分けてるところなんかも含めてプロデュースの巧さを感じる。


【The Game Galleryチャンネル】
・説明も編集が丁寧で(編集の細やかさに頭が下がる)、複雑なゲームの話もわかりやすく聞けるのが素敵だ。知識も豊富だし、あと、四方山話回を大変楽しく聞いている。


【フクハナ】
・落ち着いた雰囲気で聞きやすい。プレイヤーの迷いどころを説明している時が特に好きな気がする。対決回も好き。


【青森の鰹武士】
・システム面の特徴、面白さのまとめかたが巧みで好きだ。話し手が青森の鰹武士さんじゃない(撮影と編集が青森の鰹武士さん)と知った時は衝撃受けました。



ポッドキャスト/ラジオ

【ほらボド】
・企画や構成のクオリティが非常に高くて(知性の匂いが高くて)、最初聞いた時はびっくりした。抜群に聞きやすいので人の薦めるなら最初はこれが頭に浮かぶ。


【するめデイズのかむかむラジオ】
・冒頭ネタでたいていめっちゃ笑っている。チカールさんのボードゲーム500本達成なんでもランキングがむちゃくちゃ楽しかった。


【シュピール亭】
・システムを軸にしたトークが特徴的。切れ味がよい。そのシステムとは違わない? というようなツッコミの切れ味が大変気持ちよい。


【いかとりにょりのいかがわしいラジオ】
・気軽に聞ける雰囲気なのに内容が実はちゃんと丁寧、みたいな雰囲気が好きだ。わいわいしているけど聞きやすいし。


【ボドゲ仕掛けのオレん家】
・ボードゲーム店員、というところがピックアップされがちな気がするけど、それはそれとしてお話がうまい印象(知識量から来る面白さはあるけれど)。タイトルよいなと思った。


【Power9Radio】
・端的な喋りの面白さでは最も好きと言えるかも。おおむね笑いながら聞いている。ボードゲーム以外の話も楽しく聞けている(笑ってしまってFF15の体験版を始めた)。


【メタ研(メタボードゲーム概念的定義多面的追求社会的普及国際的研究室)】
・仮説、検証、反例、というのが細かくて(なんだか楽しそうに検証作業をやっていることが多くて)、釣られるみたいにして楽しくなっている。


【ナイスガイと老害のボードゲーム概論】
・考察的なところ好き。ある題材のもと、欲しいボードゲームをそれぞれ三つずつ挙げて、一つ、買うのを決める、という企画が大変好き。


【モクちゃんの朝までウボンゴ】
・ゆっくり聞ける雰囲気と、丁寧な語りで、妙に引き込まれて聞いている。諸々の、バラエティ豊かな企画も楽しい。


【豚の鳴き声】
・podcastに嵌まり始めた頃に、がっつり好きになって、過去ログをぜんぶ聞いてしまっている。語り手二人のバランスがとてもよい印象。

多いのがよいのも少ないのがよいのも言える

▼▼注釈を付与する分量で毎回けっこう迷う、というような話を昨日の日記で書いたのだけど、まあ回答は当然いろいろあって、驚くほど時間をかけて分量を適切さの限界まで調整するようにしているよ、という判断もあれば、読みづらくなろうがなるまいが注釈こそが正義なので増し増しで書きまくっている、っていう判断も、判るところなんてあろうがなかろうが読みたい人は調べてでも読む、あるいは、読める人が読めばよいのだ、という雰囲気で、注釈なんて極力不要だ、といった判断も、当然あるかと思う。
▼▼でもって、おのおのの判断に対して、こういう世界だと思っているので──こういう世界を目指しているので──こういう世界が好きなので、こうしてるんです、と言ってみせることができたりもする。正当性を訴えることが可能だろう。
▼▼こういう、こういうもんだから──こういう環境や状況だから──こういう影響や効果があるから──こういう理想があるから、これでよいのである、といった判断、ほんとうに多彩なところがあって、人様から想定できていなかった(しかし聞いてみたら素直に納得できる)理由が聞けたりもするし、見逃しが多いという難点もあるし、しかも、結局なんにでも言えたりもする。そして、思えているかどうかで、行動が、感覚が、ぜんぜん変わって来たりもする。不安を抱いている場面と、正当を信じられている場面じゃ、ぜんぜん違う。


▼▼なのでまあ、そのあたりのことを、不明瞭な時は人様から聞いてしまうのもけっこうアリだったりするよと思えているか、見逃しが多いので見逃し前提で探す癖があったほうがよい(見つかってなくても不安にならなくてよい)と思えているか、なんに対してでも言おうと思えば言えるんだから言うほどマジにならなくてもよい(こともある)と思えているか、これをよる正当性を胸の中に湧き出させられていれば行動も思考も滑らかになりがちだからできるだけ発生させられるように動いたほうがよいよと思えているか、というようなこと──四つの側面のことを、常々、思ってはいるのだった。ここで過ごすための前提にしておくとよさそう、と予感しているところがある。


▼▼注釈の分量で迷って、例えば誰かに、どうしてます?と尋ねてみたら、まあまあ誰からも正しそうな話が聞けそうだ、と思っている。で、どの範囲どの目的どの構造を、よしとするかは、結局じぶん次第であろう。恣意だろうし気分だろう。でも、一回「よし」と思っていれば──思えていれば、ぜんぜん感覚が変わる。よい感じ、幸せな感じ、にも繋がるのではないかと思う。思っているところがある。


▼▼ということを踏まえつつ、まあでも、じぶんの感覚を信じろ、というような論旨が混じってきたりもするわけで、うーん、やっぱり、じぶんの感覚を、ほんとうに、死ぬほど研ぎ澄ませて、耳を澄まし目を凝らし、解像度を可能な限り上げてみせて、時間をかけながら、理想を、見出すのだ、見つめるのだ、気づくのだ、というような行動が、工夫が、必要になったりもする、んだろうな、とも考えてはしまうか……。
▼▼どこにでもくっつく理屈の話と、しかしその理屈を超えたところにある、じぶんが信じられるもの、身体性、の話、とか。▼▼混乱してきたので一回終わらせておこう。

人生クラスタ

▼▼人生というものを題材にして言葉を話すことのよいところは、人生クラスタじゃない人が(おそらく、ほとんど)いないところだ、なんてふうに思っているみたいだなー、と自覚した。注釈をあまり気にしないで話せるからよい、とか思っている。▼▼言い換えるなら、注釈の分量や適量に対する意識がけっこう重いのだろう(軽視できる、ってふうに思えた時の気楽さや気軽さに関する恩恵がおおきい)。
▼▼当該要素を軽視できる、ということの恩恵のおおきさ(なんとなく気にしてしまう癖があるので、気にしないでよいと思える空間だからこそ得られる、自由奔放さ、言葉や躰の軽さ)、っていう視点論点、けっこう楽しそうだな、というふうに思考が派生もした。

だから、を、いつもと逆に繋げる(繋げられることを知っている)

▼▼「だから」の繋ぎかたって思いのほか自由だったりする。例えば、天気がよい「だから」出かける、と言うことができるわけだけど、悪天候である「だから」出かける、という言いかたも、可能ではある。おなかが空いたから御飯を食べる、とは言えるし、おなかが一杯だから御飯を食べる、というのも、言うことだけなら可能だろう。
▼▼無論、違和感を覚えてしまう「繋ぎかた」があるわけだけど(おなかが一杯だから御飯を食べる……?)、でも、極端なシチュエーションを考案することによって「違和のある言葉」がおかしくなくなるような場面、というのも、わりと想定できたりする(おなかが一杯になった、と思った瞬間に、御飯を一杯だけ食べる、という健康法に最近ハマってるんですよー)。だからつまり、違和感を覚えるからと言って、それが直接、論理的な矛盾や破綻、ということに繋がるわけではない(繋げないものを論理を無視して繋げてしまっているわけではない──ということも多々ある)。
▼▼違和感を覚える時、というのは、要するに、確かにそういう稀有な場面ならそうだろうけどね、と言えるような、極端なシチュエーションを、念頭に置いていない、というだけのことなのだ──極端なシチュエーションのイメージを切り捨ててしまっているだけなのだ。特段意識することなく、自然体で思考していると、レアケース、というものは切り捨てられがちだ。
▼▼極端ケース、レアケース、つまりは、複雑ケース(状況設定を、細かく沢山作っていくことで、極端なケースになり、レアなケースになるはず)、そういったケースの対極に位置するのが、常套句や慣用句、紋切型、といったものたちだろう、と思っているところがあって、そこから、常套句や慣用句、紋切型に頼り切ってるとマズいんだよなー、って思うようになっているところがある、のであった。▼▼ということについて、改めて考えていた(前に書いた日記の続きである)。

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▼▼これはこうだ/こういうときはこうなる/こういうときはこうすべき/こういうものはよい、というような様々な判定において、常套句や慣用句、紋切型の判断、に、普段から頼り切ってしまっていると──つまり、違和感が出ないほうの「だから、の接続先」ばかり使っていると、突然レアケースに遭遇した時に──極端ケース/複雑ケースに立たされた時に、無頓着に「違和のないほうの「だから」の繋ぎかた」をしてしまい、結果として、認識をミスる、というか、精神の安まる判断が持てない、みたいなことが、ありそうだな、って思ったのだった。
▼▼おなかが一杯「だから」御飯を食べよう、と「思ったほうがよい」レアケース、というのが、人生の中にはごく稀にある、なんてふうに思っているのだ。そして、そういう場面に遭遇した時に、ちゃんと「おなかが一杯だから御飯を食べよう」って思えないと危ういんじゃないかなー、って思っているのだ。▼▼というか、思えたほうがよいだろう、という雰囲気かな。でもって、思えるためには、そこにだって「だから」を差し挟むことができるのだ、と、知っておいたほうがよい、と思っている。だからそのためには、常套句や慣用句、つまり「ありがちな判断や言い回し」から、たまに離れておかないと駄目、と思ったりしているわけなのであった。


▼▼「だから」を、自然だ、よく聞くやつだ、と感じるほうとは逆のほうにあえて繋いでみて(そしてそれが明らかな「矛盾」ではない時に)、違和感はあるにせよ受け容れてみせよう、と思えるかどうか、そして、できればそういうことを普段から/自ら、発想することができたりするかどうか、ということの、大切さ、重要さ、あたりのことを、最近は少し考えるのだった。
▼▼自然体で受け容れることができるような、違和を覚えずにいられるような、「だから」ばっかり使う癖がついちゃってると(逆側が可能なことも意識しないままいろいろやっていると)、想像以上に窮屈な世界に(しかも無意識のうちに)追い込まれていってしまうようなイメージがあるのだよなー。なんとなく最近はそういう感じが気になる。そういう感じについてどう言葉にすればよいか考えてしまう。
▼▼今回思いついた「だから」の変な繋ぎかたの許容性、という切り口は、なかなか好きな切り口だ、とも思った。

これくらい考えたなら「アリ」だろう

▼▼これくらい考えたものであれば(問いを繰り返した時間? 問いによって進んでいった距離?)とりあえず人様に見せてもよいだろう、といった判断に関しては、固定化/惰性化させてしまっているところがありそうだなー、って思った。
▼▼と同時に、このあたりに関する判断基準、を変えようとするのって──納得ができる線引きの位置を変えるのって、けっこう難しい雰囲気あるな、とも思った。