意味の流れで引っ掛かる、脳内音韻リズム的に引っ掛かる

▼▼妙に読みづらい小説に遭遇したので「なぜ読みづらく感じるんだろ?」って不思議に思って試行錯誤してた。▼▼意味的な流れに引っ掛かってしまう型の読みづらさ、と、音韻的な流れに引っ掛かってしまう型の読みづらさがあるのかな、って思った。
▼▼語りの意味や内容の中で引っ掛かってしまって、読む、という行為が滞る場面は、まあ実際にある。実際的な問題として認識も自覚もできてる。ので、意味的な流れに引っ掛かってしまう型の読みづらさ、は、比較的簡単に想像が可能だった。
▼▼が、脳内で音読してるかのような「音韻的引っ掛かり」に対する認識や自覚は、実を言うと、だいぶ薄くしかないのだよなー。明確に意識しながら経験できたことが、明らかに少ない。けどまあ、音韻的引っ掛かりの逆側である「言葉の韻律が気持ちよくてスラスラ読める……!」って状況には、時折、遭遇できているため、間違いなくこの逆側がありうるだろう、なんてふうに思えたのだった。想像可能の範疇に落とし込めた。
▼▼文章指南で「文章の無駄なところを削れ」っていう訓話を時々見かけるのだけど、無駄なところを削ることによる文章的な効果って、つまり、意味の流れか音韻の流れ、を整調できる調整できる、ってあたりにあるのかも、って思った。▼▼至極単純に見るなら音韻側にはっきり影響がありそうなのだけど、純朴に想像してるより意味側に対する効果も強そうだ、って見做せる気もした。無駄な言葉が阻害してる「意味の流れ」って、思いのほかおおきそうだ、って世界観も想像もできたのだった。
▼▼読みづらい小説について試行錯誤してるうちに、言葉の流れやリズムに言及する指南の話を時々見かけるけどつまりあれがこれなのかなー、って思いついてみて、けど、意味的な流れにおける読みづらさ、と、音声的な流れにおける読みづらさ、は違う気がするから、区別して考えないと駄目かなー、なんて迷い始めたりしてみた。
▼▼脳内で音読してるかどうかは人による、ようだ、って認識も持ってたりするので、音韻的な流れ問題においては、人類統一的に語るのは厳しいかな、と思ったりもした。