目が向いてしまうところ

 翌日に読み返して、絞り出せてないなー、深みも凄みもないなー、みたいな曖昧な駄目出しを思って、翌々日に読み返して、いやそうでもないかなと思い直す。結局いずれの判断が正しいのかは不明だ。見るところが全然違っていて、評価はいずれにせよ間違っていないよって話なのかもしれない。昨日の自分と今日の自分が見ているもの、見ようと思うもの、見てしまうもの、が、同じではない可能性はある。また、同じ文章の中にでも見るところは沢山あって、選ばれたジャンルと選ばれた言葉と選ばれた方向性は、全部、違うもの、違う要素として、見受けることが可能だろう。物語と同じように。あるいは、物語的に、と言ってもよいのかな。相棒モノと言えるような物語が例えば自分は好きなので、相棒モノの漫画として好きな漫画があったとして、まあ脳裡には『今日から俺は!』と『ウダウダやってるヒマはねえ』が浮かんでいるのですが、いずれにせよ、それを「不良モノ」として好き嫌いを評価したり、コメディやバトル描写、あるいは、コマ割りや台詞回し、などを基準にして、評価するというか「気にする」ことはできる。あと、気分やノリや環境や人間環境や最近の体験によって、何を意識してしまうか、何を基準にしてしまうか、が、あっさり変わることもあると思う。昨日と今日では「見える」ところが違ってしまうことがあるよなあ、と改めて思う。
 一昨日の夜に、文章書きにおいて脳内情報を絞り出せたかどうか、は、せめて一晩経たないと全然見えない、書きながら(あるいは書き終えて)の精神状態で判断しても、正直まったくあてになりゃしないぜ、というようなことを思った。ちょっと閃いた。事実そうだよな、と(書きながら/書き終えてのテンションで)思って、沈思黙考しながら、結局は、単純に納得していた。更に一日経ち、それも怪しいものだ、と思うようになっている今であり、過去の判断なんてあてになりゃしねえ、と思ってしまっているが、これは、失敗に流されているだけで、これもまた、あてになりゃしない判断のような気はする。失敗経験は嫌だし怖いからなー。あっさり流される、ということはありうるだろう。ということが想像できるだけでもマシ、と思うべきところなのかな? 間違っている可能性に意識が至れるだけでもよしとすべき? よしとしてくれる? 君は、というか、ぼくは?
 誰が許せば、何々すべき? という脳内に浮かんだ疑問文は、解消してよい、解消してくれる、あるいは、発散というか、むしろ破綻というか、なくしていい、って感じになるんだろうな、とぼんやり考えた。