世界は称賛に値する

日記を書きます

あなたの言っていることがわからない、ではなくて、己の言いたいことがわからない、せいで、迷惑をかけてしまった、なんて雰囲気はあり、でもおもしろかった

▼混雑の中で笑顔を浮かべられることって多い。ということで幸せを表明できるかな、とか考えてみる。結局のところ、この現在位置までかいがいしく「幸せ」の世話を続けてきたつもりはなかったりする。というのも過剰表現ではあったりするかな。幸せは無論好きで、幸せを追求するのも好きだ。けど、無理はないし、努力もなくて、無理とか努力とかを考えず、楽しい、ってだけで続けられるようなことが、幸せと地続きなのかな、みたいな世界観や疑問文も好きなのだけど、えーと、厳密に、幸せ、ってものを語る時、脳裏に浮かんでいるのは、やっぱりそういうものでもないんだよな、っても思う。言葉じゃ幸せは伝達できない、という落ちもなんか違うし。とかいう思考錯誤も楽しい。単純にあっさり言えつつ、貶めないでいられるような地点で、幸せを語りたい、とはよく思う。
▼幸せだなあ、って話のつもり。
▼忘年会。新宿。忘年会と言えるかな、なんて思う。コトシモオツカレサマデシタ、とかはほとんどなかったからだ。忘年すら蚊帳の外だったのだろう。ということを綺麗に評価しておきたい。素敵だった、と思えた。思いのほか熱くなってしまったな、と思う。申し訳ないな、と感じる瞬間もあった。ごめん。とちゃんと伝えておこう。議論とかまだまだ苦手なのかな、って感じることも多かった。おそらく想像以上に得意になっていたのだろう。無駄に慢心していたな、って思えた。歯車が噛み合わない、なんて感じる経験が最近はあんまりなかった。ことを「技量の問題」とか勘違いしていたのだろう。違ったね、と判断できた。避けてただけだろ、なんて言えるかもだ。運が良かった、という表現でもかまうまい。対話は難しいなあ、と改めて思う。簡単に言うと、己の求めているものを把握しておく、のが、難しかった。対話では、相手の目指すところと自分の目指すところ、を噛み合わせる、のが、楽しいと思っている、のだけど、対話中「己の目指すところ」を取り逃してしまうことがある、のだ。議論においての「勝ち負け」はほとんど意識しないで済むようになった。正当は欲しくないのだ。整理が欲しいのだ。でも、志向が混乱したら噛み合わせるどころの話じゃないね、と突っ込んでおく。両者の発言思想前提を巧くまとめられる、ということに、勝利というものを見ている、という表現も可能かもだろう。