ジグソーパズルは論理的かどうか、という誇張表現

▼ジグソーパズルは論理的だよな、って最初思って、でも、ジグソーパズルは「論」ではないので、やっぱり「論理」ではなく、むしろ「ジグソーパズル理」とかかな、なんてことを考えてみた。▼ジグソーパズルは、だから、結局のところ「ジグソーパズル理的」だと言うことができるのであり、換言するなら、ジグソーパズルはジグソーパズル理に従わせることが可能だろう、ということであって、つまりは、ジグソーパズルは「各ピースの断面をきっちり合わせて完成形に達する」という狙いのもとでの規則、に、服従した形を取らせることができるよ、ということだ。▼服従させることで、ジグソーパズルに、ジグソーパズル理的な形、を取らせることができる、のではないか、と思うのだ。が、当然だけど、ばらばらに置いとくことも、決して不可能ではない。うまく嵌まらなくても重ねて置いておけばまあいいか、という判断だって可能だろう。抜けがあったりしてもさほど問題はあるまい。特に「抜けがある」場合は、ジグソーパズル理的でない、とは言いがたいのではないかと思う。ジグソーパズル理に従っているけど、不完全、というだけで、ばらばらに置いたり、断面の形を無視したり、しているものよりは、ジグソーパズル理的だろう、と思うからだ。▼素敵か駄目か納得か不満か有益か無駄か善行か悪逆か、も、無論問題である。▼とはいえ、と思う。とはいえ、ジグソーパズルは、、完成させるのが基本的なスタンス、みたいなところがあるから、ジグソーパズル理に従わせないと、無意味だろう、みたいな判断が多くあるだろうな、とは思うのだけど、言葉は、隙間なく埋めて綺麗な姿を作ってみせること、が、常に「目的」なわけでもなくて、むしろ、隙間なく埋めて綺麗な姿を作る、という選択肢も含めて、多様な姿が「手段」として扱われるであろうものだ、と思っているから、論理とジグソーパズル理の重要性とかは、かなり違うだろうとも思うのだけど、論理、というやつを、最近の自分は、前述の比喩のように見ている気配があるのだった。▼説明不足だと思うけれど、前述のような理由で、最近は、論理的な文章、という表現にも、違和感を覚えてしまう。滅茶苦茶粗雑な説明をすると、模範的な生徒、を、校則的な生徒、とか呼んでいる気がする、のだ。が、論理学とかの理解もほぼ間違いなく半端なのだと思うし、たぶんまだ獲得していない視線があるんだろう。あるいはありがちだが、広義の論理的、と、狭義の論理的、が、あるのかもなあ、とも思う。あるなら、面倒だな、とは思うけれど、文句を言っても始まらない、とも思う。ともあれ、理解に励もう、とは思う。▼あと、模範的な生徒を校則的な生徒と呼んでいる、という比喩は、結構とびっきりだ、と思えた。閃くことができて、間違いなく理解が深まった、と思う。現在の判断が、勘違いであるにせよ、間違いであるにせよ、軽いニアミスくらいはしてくれているにせよ、描写としてはなかなか適確なものだった、と思う。だから思索を続けていくなら忘れんな、と思った。こういう、素敵比喩、も、時おり忘れるから、参る。