▼「仮説1」
▼感性が似てると好きになる。
▼同属嫌悪とか近親憎悪とかって言葉があることも考慮しておかねば、だ。
▼「仮説2」
▼感性が似ているものに対して生まれる気持ちが「好き」である。
▼というのは、いくらなんでも好きを狭めすぎだろう、とはやはり思う。
▼感性が違うものに対する「好き」だってやっぱりあるだろう、とも思うし。
▼ただ、まるで理解できないもの、は、好悪の対象にさえならない。
▼という視線はありうる。ありうるし。だから。
▼という視線の亜流として、感性が似たものを好きになる、なら、言えるかも。
▼ただし、かなり粗雑な表現にはなる。ひどく曖昧な表現にはなる。
▼「仮説3」
▼好きだ、なんて言ってくれる人は、もとから「私が書いているような文章」に「価値があると思える」人なのだから、その人が書く文章が、その人にとって「価値があると思える」「私が書いているような文章」に似ているのは、むしろ当然なのではないか。
▼野球で「たとえ」を考えてみた。
▼バントが好きで、バントに価値を感じることができ、ゆえに、自らも「バント実践者」であろうとしている人がいたとしたら、ほかの「バントが好きで、バントに価値を感じ、ゆえに、自らも「バントの実践者」であろうとしている人」に、良い、という気持ちを覚えてしまうのは、むしろ当然なのではないか、という構造。かな、と思った。
▼自分を計る物差し。
▼相手を計る物差し。
▼が、同じであるなら、作るもの、と、好きになるもの、は、似て当然だ。とか。