世界は称賛に値する

日記を書きます

駄目なものは駄目ですか

▼駄目なものは駄目だ、と言ってしまえる思考の形状について改めて考えていた。理由を問うても明確な根拠を返すことのできないような主張のこと、であり、理由が「なんか嫌だと感じてしまうから」というところで終息してしまうような主張のこと、である。この思考が可能になる条件、についてはわりと考えてしまうことが多いのだ。不明瞭なところが多いからだろう。以前に思考実験をおこなって、もしも自分が大切な人に自殺されたばかりで、誰かに「自殺は良いか悪いか」なんて問われたりしたら、脊髄反射的に「自殺は絶対駄目だ!」とか答えてしまうのではないだろうか、と考えたことがある。あるいはもしかすると、この種の精神を持続的に保持している人がたくさんいるということなのかもしれない、なんて論題で思索してみたりもした。▼大切な人に自殺されてしまい、ひどくつらい気持ちを味わわされたことで、誰かに問われた「自殺は良いか悪いか」という問いが、このつらい気持ちがこの世界に繰り返されることは許されることか、というような問いに変換されてしまうような、精神状態――もしも私がとびきり大切な人に自殺されたりしたら、きっとこういう精神状態に陥ってしまうだろうな、と想像できる。という思考から、つまりはこういう精神状態を常に保っている人がいるのではないかなー、なんて風に考えてみたわけである。▼もしも私が大切な人に自殺されてしまい、誰かに「自殺は良いか悪いか」と問われたりして、脊髄反射的に「絶対駄目だ! なぜかって? 駄目なものは駄目に決まってるだろ!」とか答えてしまうとしよう。ここで言う「駄目なものは駄目だ!」というのは、要するに「あのつらい気持ちを再び俺に味わわせないでくれ!」というようなことなんだろうなー、と考えられる。こう考えると、駄目なものは駄目だ、という理由も、比較的納得しやすいものになるんじゃなかろうか、と思えたりもする。と思考してみた結果、常態で「駄目なものは駄目だ」とかいう理由を『普通の理由』として挙げられる人たちは、思考実験の中だけで感じられた「つらい気持ち」にすら「もう味わわせないでくれ」とか思ってしまう人たちなんじゃないかなー、と考えてみたのだった。