思考と言語の関係を量的な違いとして考える

▼思考と言語の関係、について改めて考えていた。で、もしかしたら単に量的な違いなんじゃないかなあ、と思ったりした。対象についてただ単に考える、ということと、対象について考えながらそれを言葉にしたときの形についても考える、というような差があるだけなんじゃないかなあ、なんて思ったのである。無論、単に思っただけではある。が、なぜかあまり違和を感じなかったりもする。▼ただピッチングの練習をすること、と、サインの練習まできちんとしてピッチングをきちんと緩急のあるものにする、ということの違いなんじゃないかなあ、なんて比喩を考えてみた。現実はおおむね試合であって、単純に速いボールが投げられる投手、と、速いボールを投げつつサインを使い分けて戦略的に戦える投手、なら、後者が評価される、というようなことなんじゃないか、と。▼たぶん違うな、と感じた。言葉にしなければほかの人には思考していないのと同じに見えてしまうのだ、というところがまったく組み込まれていないからだ。というわけで練り直し。比喩の材料は投手で続けてみようと思う。▼投手としての鍛錬、ということにおいて、たとえ誰も見ていなくても独りで投げ込んで鍛え続けていればそれが鍛錬なのだ、なんて考えること、と、監督に認められることがなければ試合に出られなくなってしまうのだから監督に認められるようアピールすることも含めて投手としての鍛錬なのだ、と考えること、の違い、なんじゃないか、と考えてみた。つまり、どこまでが練習と考えるか、ということの違いであり、要するに私はそれを『量的な違い』と考えてみたわけだ。けども、これはもう『質的な違い』と言うべきなんじゃないかなあ、とも思ってしまったのだった。