目指したい、を、好きだ、に変換できる視座

 ものごとはいろいろな見方ができるよな、と思う。背景や基礎を替えて見たり、具体化して見たり、抽象化して見たり、一般化して見たり、神聖化して見たり、細分化して見たり、できるからだ。だから、普段はごく普通のなんでもなかったことが、ある見方を採用したときに、急に輝きを増して見えるようになることがあったりもする。ある視座からでは特に『好きだ』と感じられなかったものが、ある視座からでは物凄く『好きだ』と感じられることがある、わけだ。そのさまざまな視座の中に、好きだという言葉を『私はそれを獲得したいと感じているのだ』という宣言に変換できる視座があって、私が頻繁に採用している視座はそういったものなのかもしれないな、とふと思った。好きだと感じたものをなぜ『目指そうと感じるもの』と同一視してしまうのか。好きだとか言いながら『でも目指そうとは思わないけどね』と言えてしまうのはなぜなのか。ということについて以前から考えていたのだった。最近の自分の思考には『目指したいと感じられるところにしか好きだという言葉を使うべきじゃないのでは』というような雰囲気があって、でも、人間の比較的豊かな感性が抱えられる『好き』ってのはそんな狭いものではないよなあ、と感じていたからだ。違和感を覚えていたのだ。とはいえ、目指したいと思えるところ、に対する、好きだ、という宣言が、最も強靭な『好きだ』であるのだろうな、とは思う。だから、好きだ、という宣言を、できるだけそういった形で使っていこう、とも思う。