世界は称賛に値する

日記を書きます

指し示すこと、ラベルを貼り付けること(一本足の蛸)

http://d.hatena.ne.jp/trivial/20060115/1137297510

「指し示すということとラベルを貼り付けるということは、同じじゃないのかい?」
 違うと思う。何かを指し示すという行為の典型は、ゆびさしだ。指し示したいものがある方角に指をさしむけるという身振りが、指し示すことの原型にある。ゆびさしと同時に「これ」とか「あれ」とか言葉を添えるところから、この領域での言葉の使用が始まり、さらに進んでゆびさしなしでも対象を指し示すことができるように、名前が生まれたんじゃないだろうか?
 それに対して、ラベルとしての言葉は、最初からゆびさしとは関係がなくて、そのラベルを貼る対象がもつ特徴や条件がほかの対象とどのように似ているかということにより関係づけられているのだと思う。何かが何かに似ているとか似ていないとか、そういったことはゆびさしや名指しの場合には関係ないことだから、指し示すということとラベルを貼り付けるということは別の事柄だと思うわけだ。
「いや、指し示すということとラベルを貼り付けるということの間に、それほど目立った対照はないと思う。確かに言葉の発達の歴史を辿れば、ゆびさしが名指しのもとになっているとは言えるかもしれないが、だからといってゆびさしを指し示すということの典型だとみなす必要はないんじゃないだろうか? あくまでも言葉で指し示すということに話を限れば、その際に用いられる名前は何かが何かに似ているという認識とは無縁じゃないと思う」

 おのれの思考に対して、たまに、単純化させすぎだろ、と思うことがある。そのあたりを刺激させられた。優れた疑問はそれだけで素敵なのだよ、というような境地に最近は達している気がする。たとえば、ゆびさし、ということについて私は今まで考えたことがなかった。そういう新しい視座を与えてくれるから、疑問ってのは結構素敵だ、と思う。