我が神に弓ひけ背約者(下)(秋田禎信)

我が神に弓ひけ背約者〈下〉―魔術士オーフェンはぐれ旅 (富士見ファンタジア文庫)

我が神に弓ひけ背約者〈下〉―魔術士オーフェンはぐれ旅 (富士見ファンタジア文庫)

「例の地下劇場を出てから、あなたのことは見ていなかったの。だから。あれからあなたになにがあったのか、わたしは知らない。話しなさい、全部。魔術が使えなくなったって、どういうことなの? それに……」
 と、一拍置いてから、付け加えてくる。
「殺した、ってどういうこと?」
(聞かれた……)
 鐘の音のように低く――
 頭の中に、なにかが響きわたった。頭蓋が破裂するような頭痛に、顔をしかめながら、彼は彼女を見つめ返していた。いつになく巨大な鼓動が、耳の横の血管で脈打つ。終わることのない、だが慣れることのない脳の痛みに、身体がわななく。
(くそっ……!)
 毒づいて彼は、きつく目を閉じた。必死にこらえるが、痛みはさらに激しくなっていく。衝撃の波の下でもがいて、オーフェンは悲鳴をあげかけた。喉の奥から胃液とともに声を張り上げそうになって、そして――
(……………………)
 ふっと、その痛みが消えた。
 気がつくと、彼は、自分を優しく抱く腕の中にいた。
 視線を上げる。と、アザリーが、彼の首を抱いてくれていた。ぽん、と軽く背中を叩いて――彼女が言ってくる。
「話しなさい、全部、わたしに。あんたのことなら、わたしがなんでも解決できる。今までだって、だいたいはそうだったでしょ?」
 その『今まで』というのが、五年前以前のことなのか、それともつい最近のことを言っているのか、オーフェンはあえて聞こうとはしなかった。実際、聞けなかった。どちらにせよ、彼女は勘違いしている――オーフェンは苦笑まじりに考えた――彼女が彼の解決策になったことは一度もない。彼女は昔から、彼のところに厄介事しか持ち込んでこなかった。
「まったく、馬鹿な子よね」
 アザリーの声は、優しく付け加えてくる。
「……そんな状態でわたしと対決しようなんて、無理よ」
 紛れもない優しさが声となり、それが耳元で囁かれる……
 力が抜けるのを感じながら、オーフェンは、頭痛が消えた代わりに鼻の奥が痛み始めるのを自覚していた。まぶたが重く、緩くなる。喉の奥が熱い。脱力したついでに涙がこぼれるのを、彼は止めることができなかった。
(彼女は……)
 オーフェンは、泣きながら独りごちた。
(俺が、彼女を殺せる暗殺者だってことを忘れていない……)

 世界には大きな誤解と小さな誤解しかない、という言葉を書いたのは秋田禎信氏だったと思う。その『小さな誤解』と『大きな誤解』がここに描かれている、と私は感じる。あるいは『理解』の存在が許されるならば、理解と誤解が描かれている、と言ってしまいたいところでもある。でも、実を言うなら、それをきちんと語るにはどう語ればいいのかが私にはわからない。私がまだよく知らない『文学理論』に夢を見るのは、文学理論にはそういった力があるのかもしれない、と妄想しているからだ。文学理論は道具だと聞く。小説を解釈するための道具。それはつまり、小説を解剖するための新しいメスだ、と考えている。新しいメスで新しい視点から小説を刻めば、今まで語れなかったことが語れるようになるかもしれない。それを夢見ている。繰り返しになるが今の私では、ここで描かれている複雑な世界を語ることができない。それが悔しい。でも、甘えすぎかな、とも思う。