嫌いな人のいいところは見えづらい

▼今日は夕番なので、午後二時から仕事。いいともを見ながら朝食(兼昼食)をとる。私の場合、そのタイミングが限界値だ。十二時に食事をとれば、おおむね問題なく仕事に間に合う。それ以降になると、食事を取る時間がなくなってしまうのである。電車のなかでは、引き続き『文学部唯野教授』を読んでいた。行きの電車のなかで読んだのは、第2講の『新批評』部分。ニュークリティシズム、についてだった。わかりやすいし、おもしろい。と、文学理論解説部分に対して強く思う。そして、学内政治をパロディ化しているところも楽しい。大学内って本当にこんななのかな、と興味と疑いのまなざしで思ったりするが、まあ近似した部分はやっぱりあるのだろう。なんにしろ、ずっと謎で気になっていた『文学』というものについて、ここまで平易に語られると、本当にすっきりするものがあるな。文学を学ぶための取っ掛かりにしよう、と思わされる。▼到着後、今月後半のスケジュールを組む。私の唾棄すべき悪癖のひとつで、コントロールしようとは心がけているのだが完全にできていないところに、感覚的に好きではないと思ってしまう人間に対して評価が厳しくなってしまう、というところがある。けれど、誠実に見れば、そういう人だってきちんとやってくれているし、やる気も下手な人よりあったりするのだよな。先入観でそれが見えなくなることがある。唾棄すべきどころの話じゃないな。できるだけ人のいいところを見ながら生きていこう、なんて理想を抱えているくせに、甘っちょろい話だと思う。とはいえ、最近は、そのへんの反省を繰り返した結果、ある程度の矯正はできてきている気もする。普段の人格に誠実さが顕著でなくても、何気に誠実な人間、っていうのがいるのだ、ということを、学習できてきている、と思う。まあ、それくらいさっさと学習しろ俺、とも思うわけだけど。ちなみに、あまり評価できない気がする→でもよく見ればちゃんとやってくれてるじゃないか印象で決めつけんな→と思いきややっぱり適当な人だった、というようなコンボを食らうこともあって、そういうのが続くと、感覚的な人格評価も無視はできないな、と思うこともある。要するに、簡単に決めつけてわかったような気になるな、ということなのだろう。わかった気になる、ということが一番と言っていいくらい危険なことなのだ、ということは、さまざまな面で学習できるわけだし。