世界は称賛に値する

日記を書きます

やさしくしたつもりになっても駄目だ

▼送別会に参加した。以前の職場の男女二名が主賓だった。就職したらしい。恨みや嫉みについて考えさせられる場面が散りばめられているなあ、なんて思っていた。観察対象としては楽しいものだった。が、辟易していた人も当然いただろう。深夜解散。漫画喫茶で時間を潰していた。▼誰かに優しくする、ということについて改めて思う。大切な人に対して、優しくしよう、と真剣に思うのなら、優しくしたぜ、なんていう満足感に酔ってはならない。浸ってはならない。納得してはならないのだと思う。自分が『優しくした』と思えたかどうかなんて、まるで関係がないからだ。相手が『優しくされた』と思ったかどうかだけが重要なのだ。というような思考を『優しさ』に対して向けるようになった。かつて、これが優しさなのだ、というおのれの行為に対する判断だけを『優しさ』の基準にしていて、後に自責の念に駆られたことがあるからだ。浅はかな自己満足にひたっていても目的は達せられない、ということを経験からちゃんと学んだのだ。相手の幸せを真剣に願うのならば、ちゃんと相手の気持ちを変化させようとしないと駄目なんだなー、と実感したのである。幸せになってもらおうとしているのに自分の気持ちの変化を重視してどうする、と反省した、なんて言ってもいいだろう。大切にするというのは、大切にしているぜ、と思うことではなくて、大切にされているな、と思わせることなのだ。前提した。