世界は称賛に値する

日記を書きます

素敵な人生のためには君が必要だ、けれど君を乗り越えてみたいとも思うんだ

▼もしも人生というものに対して勝敗や美醜や賢愚を問うならば――つまり、人生というものには『良き人生』と言うべきものと『悪き人生』と言うべきものがあるのだ、という前提のもとで、ではこの人生はどちらに属するのだろうか、と問うならば、現在の人生がおのれのものであることにきちんとした満足感を覚えている、という条件は、必須条件になってしまうのではないだろうか、と考えていた。たとえどれほど望んだ通りの条件を与えてもらっていたとしても、満足感を覚えていない、という一つの条件が組みこまれるだけで、勝利者として君臨できるようなものでも、美しいなと迷いなく言えるようなものでも、賢い人生だと羨望を覚えられるようなものでも、なくなってしまうような気がしたからだ。▼対象化されていないものは存在しないも同然だ、と言えたりするし、意識化と同時に存在していると言えるようになるのだ、と言えたりもする。改めて考慮しておくべきはこのあたりなのだろうな、と思った。満足を感じているか、という問いの答えが『良き人生と悪き人生』の境界線になってしまう、という判断は妥当なものだろうと思う。のだが、満足を感じているか、ということを問うことなしに――つまり、満足感という概念を判断の条件として存在させずに『良き人生と悪き人生』を考えることだって、もしかしたらできるのではないか、とも思えたからだ。迂回できるんじゃないか、と思ったのだ。