世界は称賛に値する

日記を書きます

無駄な時間だと決める覚悟

 道路の起伏によって自転車が揺さぶられる。機体と一蓮托生な身体も当然揺さぶられてしまっていた。つまりはぐらぐらだった。裏道がかなり好きだ。人通りの少ない道が好きなのだ。だから、勤務が終わった後は、いつも、ほとんど人影の見えない道を通って帰ることになる。ひどく静かだった。そして、いつも通りの静けさだった。輝く月を見た記憶はない。夜空の雲はほがらかだった。寒くはなく、気持ち良くはあった。最近はあんまり疲れなくなったなあ、なんて思う。さすがに適応したのだろう、と思った。微弱ながら鍛えられたのだろう、とも思った。自転車を走らせるときは、大抵、かなりの速度で疾走させてしまうことになる。移動時間というものに、もったいないなあ、という印象を持ってしまってせいだ。無駄な時間、なんていうものは、あると言えばあるもの、だし、ないと言えばないもの、だ。いわゆる、主観的なもの、なのだ。簡単に言うなら、自己決定で出現するもの、なのである。おかげで、たまに迷う。無駄な時間、と言ってしまっていいのか、迷う。眼前の時間を『無駄な時間』かどうか決めるのは結局のところオマエで、だから「無駄な時間だ」とオマエが判断した瞬間、眼前の時間は即座に『無駄な時間』へと変貌してしまうだろう――さて、では、オマエは、きちんとその覚悟を持って「無駄な時間だ」と断言することが本当にできるのか? なんて声を聞いてしまうのである。で、どうしてそんなきついこと言うかな、と思わず苦笑してしまうのだった。即断即決が重要な状況、というのは当然あるわけだけど、即断即決が重要でない場面、だって当然あって、後者の状況で短絡的な即断即決をしてしまうことは、おおむね『愚行』だと言える。選択しないよりたとえ多少誤っていても選択したほうがいい場面、と、もしも誤った選択をしてしまうくらいなら選択しないままでいたほうがいい場面、が、あるんだよなあ、と思う。