世界は称賛に値する

日記を書きます

▼書いているのは全然行動記録的な日記じゃなくなっていて、むしろ単なる思考記で、別にそれはいいんだけどちょっと悔しい、みたいなところもなくはない。行動記録的な日記もつけたい、と思っているせいだろう。そこにもなにかしら良いところがある、と思っているせい、でもある。ちなみに「思考記」という言葉は造語だけれど、わりと好きな構造を持った単語なので、これから使っていくかも、という雰囲気だ。ひさしぶりに勢いだけで文章を書いているな、と思う。最近、こういった軽快さが必要なのだ、と考えていたのだけど、実行に移すには時間がかかった、し、改めて実行しようと決意するより、深く考えずにやってしまった方がその方向へ近づくことができたりした。そんなものなのだろうな、と思う。フットワークが重い、というのが自分に対する評価で、要するにそれは、すぐ動こうとしない奴、ってことであり、あまりいい評価ではない。だからその評価を甘受するつもりもなくて、気をつけておこう――そして改善しよう、と思う。人生を生きていて、私はこうして、人格的に改良したい点を自らの手で指摘したりして生きているわけだけど、なかなか改善には繋がらない。というのも、フットワークの悪さゆえであろう。ただ、フットワークが悪い、なんて表現するとさほど問題ではないように感じられるが、実際のそれは、単なるめんどくさがりであって、ろくでもなく、あほか、的なことすら思わされる事実だ。フットワークの重い自分、という表現は許せるけれど、めんどくさがりな自分、というのは許せない。言葉にはそんな魔力があるので、気をつけようと思う次第。

雷電本紀 (河出文庫―文芸COLLECTION) 犬は勘定に入れません…あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
▼忘れてしまいそうなので、気になった本をチェックしておくくらいの習慣はつけておこう。飯嶋和一の『雷電本紀』とコニー・ウィリスの『犬は勘定に入れません』の二冊。習慣的に見ているサイトで紹介されていた小説である。作者名的には、どちらも関わった記憶がなく、おそらくは、意識したこともない。ただ、雷電本紀の作者である飯嶋和一については、そうとも言い切れないかな、と思う。この著者の他の作品である『始祖鳥記』に関しては、タイトルになんとなく引っ掛かるものがあるからだ。いつだか知り合いが読んでいたか、どこかで紹介されていたか、くらいの関係はあったかもしれない。なんにしろつまり、一度も読んだことがなくてもその名前を知っていて、読んでみようと意識し続けている作家(東野圭吾なんかが私的にはそうだ)もいるのだけど、このふたりは、その領域に属していなかった、というわけだ。読む前にわざわざ情報を得てしまうのもどうかと思うので、内容について触れるのは意識的に避けることにする。書こうとすれば、きっと調べてしまうからだ。おもしろさを追求するなら、たとえあらすじだけでも、本当は、知らない方がいい。時折、おもしろさを増幅させる感想文があって侮れないが……。

▼一生懸命やっている女性は魅力的だ。何事でも、とは言わない。一生懸命やること自体が素晴らしい、と考えてしまうと、なにかがきっと狂うからだ。しかし、自分が楽しいと思えるものに対して誠実に努力できる、ということは、間違いなく美徳だろう。一生懸命やっている自分に満足できる――そういう自分を誇りに思える、という人物は、意外に少ない、のだ。そんな人と話す機会が少しあって、そんな機会が持てたことと、そういう人物に知り合えたことを幸いに思った。ちょっと惚れますね。なんというか、簡単に手を抜く人、手を抜いている自分を恥に思わない人、手を抜いている理由を他者に押し付けていながらそのことを自覚してすらいない人、という人間だって、たくさんいるし、正直なところ、そういった人物が世界にたくさんいることに対し、絶望的な感情を覚えたこともある。正義感が強かった、というよりは、見誤っていた、のだと思う。が、しかし、本当に見誤っていたのかどうかは、今だってわからない。やはり、そんな、絶望を誘うような人物で、世界は満たされてさえいるのかもしれない。無論、そんな解釈はほぼ確実に言いすぎだし、それでも間違いなく素敵な人たちはいるのだから、わずかでもそういう光があるなら、ま、悪くないかもね、と笑ってみせるべきなのかも、なんて思うわけだ。