世界は称賛に値する

日記を書きます

不合理ブレーキ

▼▼人間の生理や直観と矛盾したり相反したりしている制度や規範、常識、といったものが沢山あって、不合理だなあ、って思ったりしていることもあるのだけれど、人間の生理や直観をそのまま素朴に運用していると問題が沢山起こりそう、というような事柄に対し、制度や規範、常識でブレーキをかける──見づらいようフタをする──なるたけ機能しないよう働きかける、という切り口もあるはずか、って思い直した。

エピソード感想、行動と意志×2

▼▼不満や文句や愚痴のようなエピソード──人と人とのやりとり、を聞いた時、理解や判定、感想、思ったことを言う、にあたって、見るべきところ、というのは、四つくらいありそうだなー、って整理していた。いいじゃん、だめじゃん、って言いたがるのはどこなのだろう、って自己分析していた。▼▼どこの情報を重視したがるか、どこの改善を重視したがるか、を考えていた。
▼▼ある人が行なったアクションと、そのアクションを行なうに至った当人の感情と、そのアクションを観察していた人物が行なったリアクションと、そのリアクションを行なうに至った観察者の感情の、四つだ。
▼▼あるアクションを取ったのは妥当か不当か、ある感情を覚えたことの良し悪しはどうか、といったところを見たがる癖がある、んじゃなかろうか。▼▼それがアクションであるかリアクションであるか(開始地点はどこか)は視座にもよってきそうだけれど。

香港に行きました

▼▼昨日の昼間に澳門(マカオ)から移動して香港に向かった(ので日付としては昨日の話だ)。澳門から香港に向かうフェリーがおおきく揺れ、驚くほど酔うところから香港散策が始まった。散策の途中でボードゲームショップにも立ち寄った。最近はもう新天地に行くたびにボードゲーム的案件が絡んできそうなことになっている。というくらいの愉快と没入が、ボードゲームというもののまわりにはあるなあ、なんて考える雰囲気になっている。香港だと販売のみを行なうボードゲームショップというのはなく、プレイスペースも兼ねつつ運営されていることがほとんどのようだった。一つのビルの中に複数のプレイスペースがあるようなこともあって、大変面白かった。日本語が(いくらか)話せる店員がいたのも驚いた。おすすめを聞いて買った。

f:id:meltylove:20181111005351j:plain
f:id:meltylove:20181111005405j:plain
f:id:meltylove:20181111005422j:plain
f:id:meltylove:20181111005441j:plain
f:id:meltylove:20181111005454j:plain
f:id:meltylove:20181111005509j:plain
f:id:meltylove:20181111005522j:plain
f:id:meltylove:20181111005540j:plain
f:id:meltylove:20181111005553j:plain

澳門に行きました

▼▼土曜日の深夜に空港に出向き、日曜日早朝に香港に到着。移動して澳門(マカオ)を散策した(なので日付としては昨日の話になる)。澳門という文字列は初めて見たくらいじゃないかと思う。人生内であまり見かけてこなかった。新鮮な風景を眺めながら、街並みのデコボコ感が東京とは異なるかな、というような印象を持った。デコボコ感の違いを楽しみつつ写真を撮った。

f:id:meltylove:20181111003823j:plain
f:id:meltylove:20181111003839j:plain
f:id:meltylove:20181111003852j:plain
f:id:meltylove:20181111003925j:plain
f:id:meltylove:20181111003940j:plain
f:id:meltylove:20181111004000j:plain
f:id:meltylove:20181111003905j:plain
f:id:meltylove:20181111004014j:plain

『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読みました

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

▼▼認知が基本的に持ってしまっている脆弱性が、世を生きるということにおいて、いかに使われているか、いかように混じっているか、ということがおそらくかなり綺麗にまとめられている。大変ためになった。これまでこういった知識を持っていなかったせいで対策が立てられていなかった脆弱性は、「運を実力だと錯覚する」「利用可能性ヒューリスティック」「デフォルト値バイアス」「感情ヒューリスティック」「置き換え」になるかと思う。今回で多少は意識できるようになった。
▼▼これまで完全に無防備だったのは「デフォルト値バイアス」と「置き換え」の二つの認知バイアスだ。難しいぞ、と直観したら、無意識のうちに、デフォルトの答え、現状維持の答え、を選んでしまう癖。難しい問いだぞ、と直観したら「答えられそうな類似の問い」に勝手に置き換えて回答してしまう癖。というようなことに「気づけない」こと。
▼▼「運を実力だと錯覚する」は、無自覚ではなくて、微調整も挟むようにしているのだけど、なんか、直感的には、やっぱり迷う。脊髄反射的にズレを意識し修正し、答えを出してみせる、というような挙動はまだまだ無理。
▼▼「利用可能性ヒューリスティック」の、使いやすい情報だけを使って判断してしまううえに、情報の欠如には「気づけない」こと、「感情ヒューリスティック」の、好きなものはメリットを過大評価しリスクを過小評価するし、嫌いなものは逆をしてしまうし、そのことにに「気づけない」こと。この二つについては、なんというか、知識としてはいちおう理解できていたものの、結局、気づけていないようだよな、と再認識した。自覚が想像以上にない(なんとなくやっていたことありそう、と、思い返してみて思えているくらいである。こういう時にやってしまっている、という事例は不明瞭だ)。

第一に、脳は、過剰に一貫性を求める

これが、ハロー効果、少数の法則、感情ヒューリスティック、運を実力だと錯覚する、一貫して偏ったストーリーを真実だと思いこむ、などの認知バイアスを引き起こす。

第二に、脳は、過剰に原因を求める

これが、ハロー効果、少数の法則、運を実力だと錯覚する、などの認知バイアスを引き起こす。

第三に、脳は、過剰に結論を急ぐ。

これが、ハロー効果、少数の法則、利用可能性ヒューリスティック、感情ヒューリスティック、置き換え、デフォルト値バイアス、などの認知バイアスを引き起こす。

頑張るの気軽に考えていて駄目だった気もするけど、気軽に考えられていたからこそだった気もする

▼▼頑張り続けられると思っていたけど、頑張り続ける精神を継続させていくのってかなり厳しいのだなあ、とは思うようになってきた。頑張り続けられる人に対する尊敬、というよりは、衝撃、が最近はある。頑張り続けたくないと思わせることと、頑張り続けないほうがむしろよいと思わせることと、頑張り続けなくてもよいよと思わせることと、頑張り続けなくてもだいじょうぶみたいだと思わせることが、ちょこちょこと積み重なっていく印象である。でも頑張り続けたほうがよいじゃん、と攻撃してみせる人格の維持が難しいという感覚かな。元気で健康、好都合、なシチュエーションじゃないと出せないことも増えた。
▼▼信仰心がが役立つであろうことが想像しやすくもなってきた。信仰心を保持するための宗教団体の意味も判りやすくはなってきた。自己生成が可能だろう、って想像していたのだけど、よっぽどうまくやらないと駄目そう? なのかな? うーん? というようなことを思えるようにもなってきた。うまいやりかたを知らないだけかもしれない、という可能性も気にかけている。▼▼格好つけ、見栄、おのれの人生や個人を際立たせるストーリー、といった物事についての頼り甲斐についても考えている。
▼▼というあたりのこと、けっこう、最近の、主題、という印象だ。ふわふわさらっと書いてみたけれど。思考の端々ににじんできている。いろいろボトルネックになっている。いつの間にか変質している(気がついたら変色してる~)というところが怖ろしいところとも思う。