世界は称賛に値する

日記を書きます

朝まで飲んで議論して

 朝まで大激論、と表現して良い風情だったと思う。友人ネコ氏の家に集まった私を含めた4人で、朝方まで多種多様な議題を語り合っていた。ああいう雰囲気で話せることが友達という関係の真髄だ、と私は認識している。つまり、私が友人らとの付き合いの中で最も強くその存在を感謝する(友達ってものがいてくれて良かったな、というような感覚を覚える)のが、おおむねそういった場面なのである。人が真剣にはどう考えているか、ということに強い興味があるからだろう。そしてそれ以上に、そういった意見を聞いて思考が活性化されるのが快楽だからだろう。いつもでなくてもいい――でも、時にはそういう真面目な話し合いができれば嬉しい、というようなことを昔からよく考えている。終焉は午前7時を過ぎた頃合に。帰宅して顔を洗ってすぐに寝た。午前10時半くらいには墓参りに行く予定があったので、それまでの短い休息。あっという間に目を覚ます。墓前でやることなんていつでもたいして変わらないので細かい描写は割愛しようと思う。ステーキレストランで朝食というか昼食を取って、家路につく。おそらく仏教徒でなかった(と思われる。というか、日本人にありがちな宗教への短慮な否定があっただけだと思う)父親を、仏教作法で弔うことに、かつてはちょっとした疑問を抱いたし、今でも納得しているわけではないのだけど、でも、死者への礼節、ということを考えた時に、私と父親の間にある共通のコードが仏教作法しかないというのなら、しかたのないことなのかな、と今は考えている。仏教作法で礼を尽くすことが、父親自身に『弔われている』という印象を与えることのできる(実際は死んじゃってるわけだからあくまで想像上なんだけど)唯一の方法であるのなら、仏教徒がどうとか形式的なことなことに私がとらわれていてもしかたがあるまい。クリスマスを一緒に過ごすことに対して幸せを感じる人を幸せにしたいと思うのなら、実際のクリスマスを一緒に過ごしてあげればいいのであって、そこでわざわざキリスト教徒じゃないからどうとか言い出しても幸せにはできない、ということだ。