世界は称賛に値する

日記を書きます

素敵日記は何処にゆく

▼▼ぼくの思っている「素敵な日記」が現出しやすいところって、最近はもうホームページやブログではなくなってきているのかなー(ぜんぜん知らないところで顕現するようになってたら嫌だな)(そもそも出てきにくくなってきていたらなおさら嫌だ)、とかは思うようになってきている昨今の状況ではある。うーん、でも、芸術とか創作とか表現とかいった「身近さや気軽さとは少し違うところ」に重心が移ってるだけならまあよいか? 身近さや気軽さが減るのってやはり好ましくない気もしつつだけれど。

ハンザテウトニカやイリュージョンで遊びました(ボードゲームカフェ)

▼▼ぜんぜん勝てないなー、推理とか思考とかってどうやるのが適切なんだっけなー、というような疑問が出てくるくらいには敗北が重なるところがあった。頭の使いかたに意識が向いた。のだけど、それでも問題なく楽しくて、こういった素晴らしい景色がこのあたりにはまあまああるよなあ、と思った。悔しがりと楽しさが響き合ってる景色は気持ちよい。といった満足と充実を得つつ皆様と遊んできた。『ハンザテウトニカ』→『ノートルダム』→『イリュージョン』という順番で遊んだ。


ハンザテウトニカ(プレイ二回目)

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▼▼ほんの少しの優位性を逐一見通していく、というのができていなかった気がする。






ノートルダム(初プレイ)

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▼▼上記と同じようなノリで負けた気がする。念願なところあって、やっと遊べた。






イリュージョン(プレイ二回目)

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▼▼面積のおおきさの観察眼勝負。優れた観察者が揃っていた雰囲気だった。

写真ぱしぱし撮って手軽に可能性無限大(正当諦め)

▼▼んなもんないよということは判るようになってきたのだけどなんとなく頭のどこかでは正解や最適解や唯一解があるような気分で接してしまっている──答え探しをするような心境で取り扱ってしまっている、というような状況が、やっぱりある。芸術や創作や表現といった分野でもわりとそうだ(人生という空間に向けても、まあ、けっこうやってしまっているんじゃないかと思うけれど)。


▼▼写真における素敵さや駄目さ、って、ほんとうにわずかな位置取りの違いだけで、おおきく変わる。まったく違って見える。数ミリの違いを組み合わせ続けていくだけで、無数の写真を撮ることができるし、無数の中で、良し悪しが毎回おおきく変わる。すごいよい!すごくだめ!の境目が、非常にシビアだ。ということが、最近ようやく、くっきりと理解できてきていて、写真を撮る、という表現形式に対しては、最適解、唯一解、というようなものを、あまり追い求めようと思えなくなってきた。数千枚くらい撮ろうと思えばあっさり撮れてしまうのに、その数千枚の中に唯一の「正しさ」があるとか思うの、おかしいでしょ、って、瞬時に想像できるようになってきた。無数の、大量の、可能性が、わかりやすく「顕現」してくれるおかげで、あ、無理や、って思えるようになった。


▼▼小説(文字・文章)とか絵って、写真と比べると、無数の可能性が目の前に気軽に沢山並んでくれるわけではないせいか、これまであんまり、あ、こんなに沢山「可能性」があるなら正解探しはやめときましょう、てか無駄じゃん、って思えたことがなかった、気がする。習作を沢山書くことで目の前に並べてみせて、その可能性のおおきさに、驚きと呆れと面白みを覚える、みたいな切り口も、とはいえあるはずなので、そういう修練をあんまり積めていなかったことが、結局駄目だったんじゃないすかねえ、ということも合わせて思った。とにかく書きまくってみろ、というような指南は、このあたりを実感させる効果も果たしているのだろうな、って想像できた。


▼▼とは言いつつ、写真からの学びからの転用によって、最近は、文字や絵にも、正解探し気分、を持ちこまずに済むようになってきたところがあるかと思う。言葉上では判っていた「正解がある、とか思うのやめなよね」っていうツッコミが、自然になってきた。

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このあたりはこういう感じなので好きだ/嫌いだ、っていうすくいあげかた、範囲が雑なことがある

▼▼実際に経験した出来事から、一般論じみた結論をすくいあげる時に、「あんまり関係ないところ」まで、ひとまとめに引き出してきてしまい、謎のおおきさの範囲で、好んだり、嫌ったり、してしまっていることが、ある。坊主が憎い、といった経験則の中に、袈裟のことまで混ぜてしまっているようなことがある。謎の効果範囲を決めて感情や感覚を適用してしまっていることがある。
▼▼この「変な混ぜかた」でツラくなっているのが嫌いだ。変なもの混ぜないで、とじぶんに語っていることも多々ある。切断しよう制御しよう、とも謳いがちだ。


▼▼でも、切断や調整にはけっこうな「器用さ」が要るんじゃないかなー、と思うこともあって、誰でも可能な処理ではないのでは、と、想像していたりもする。誰に対してでも軽々しく「切断しなよ」「制御しなよ」と言えることではないのではないか、って疑っていたりもする。▼▼というか、誰かに指摘なり意見なり助言なり、余計なことを言ったりした時に、いやそんな器用なことできないよー、って言われたら、なんにも言えなくなっちゃいそうだなー、という不安があるのだった。


▼▼といった問題まわりのことを考えているうちに、この現象とこの事象は関係ない、この出来事とこの事柄は関係ない、というふうに「関係、無し」と言ってのける「切断」というのは、滅茶苦茶、強気な思考プロセスだな、って思えるようになってきた。びっくりするくらい強烈な判断なのではないかと気づいた。関係ないじゃん、という台詞を、わりと頻繁に言ってしまっているのだけれど、真剣にこの「関係なさ」と向き合うと、言える瞬間、すごく減りそう、死ぬほどシビアそう、って思い直せてきた。関係ない物事なんてそうそうありますかね?とか思った。
▼▼さまざまな「関係あるなし」の判定が、世界観をおおきく変えてくるはずなので、あんまり軽佻浮薄にあつかうんじゃないよー、というようなことを思ったのだった。

カルカソンヌやドミニオンで遊びました(黄色ボードゲーム会)

▼▼週明けのボードゲーム会。朝から夜まで遊んだ。『くだものあつめ』→『カルカソンヌ+拡張:宿屋/大聖堂』→『ドミニオン(第一版)』→『ツォルキン』→『タギロン』という順番だった。

くだものあつめ(初プレイ)

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・種を蒔いて果物を買い集める。勝利条件の調整が素晴らしくて唸った。






カルカソンヌ+拡張(宿屋/大聖堂)

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・ひさしぶりに遊んだら大変面白かった。都市の奪い合いが過熱した。






ドミニオン(第一版)

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・カルカソンヌと合わせて定番傑作を遊ぼうのコーナー。改めて拡張欲しくなった。






ツォルキン

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・コマを置く、回収する、の二つの選択だけでこんなに悩まされるのホントすごい。






タギロン

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・数字当て。慌てたせいで説明が適当になったところが多々あった。申し訳ない。

カルカソンヌJ (Carcassonne J) ボードゲーム

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ドミニオン:第二版 日本語版

ドミニオン:第二版 日本語版

ツォルキン:マヤ神聖歴 (Tzolk'in: The Mayan Calendar) 日本語版 ボードゲーム

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タギロン 新装版 ([バラエティ])

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  • 作者: 倉橋良平(ブッコ)ゲームデザイン/白坂翔(JELLY JELLY GAMES)企画
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本
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気を取り直せる

▼▼気を取り直していこう、と奮起したら、けっこう楽しくなれるほうだ。といった経験が重なっていった結果、「精神」「心」「理解」「解釈」といったものの重要性を大変おおきく見積もる習慣ができているんだろう、って自覚し直した。世話になりすぎていて寄りかかりすぎ、ってことが起きていそうだ。