世界は称賛に値する

日記を書きます

新鮮味なしの言葉だけで

▼▼新鮮味が味わえる言葉が好き──馴染みのない言葉が頭の中で軋む音が好きだ、というようなことを思ってしまいがちなので、新鮮味のぜんぜんない「滅茶苦茶馴染んでいる言葉」のみを使おう、といった指針および制限の中で日記を書いてみるのも面白そう、と思った。固有名詞でかなり迷いそうだ。固有名詞と固有名詞以外では「馴染み」の意味合いが変わってくる気がする。一般名詞の「一般」具合にも迷い始める気はする。

最初は鷹揚に受け止める

▼▼まあとりあえずなんだってありでしょー、とでもいうような鷹揚な気分で、まずは認識を開始して、いやいや少しは制限しましょうよ……、好き嫌いなり善し悪しなりグラデーションがあるじゃないですか……、というふうに、改めて区画整理を始める、という順番で状況判断を進めていること、って多くて、こういう「初手としてはあんまり綿密にチェックせずに鷹揚に受け容めてみせる」→「全体をまず受け容れてからの、細部のチェック、による規制の開始」という流れによって、結果的に、許容範囲が広くなってくれているようだ、と思ったので、よいな、と思った。

描写文の映像への無加工変換

▼▼小説の描写については映像におけるカメラワークを参考にせよ、といった指針を耳にしたりすることがあるけれど、小説の描写を、あるがまま、言葉通り、映像化してみたもの、って、実際には見たことがないなと思ったので、無加工変換したものを見てみたいぞ、映像変換されたものによって行なわれる作家や作品の比較も見てみたいぞ、というようなことを思った。

与えられた文章題も気持ちよい

▼▼算数の文章題を解こうとする行為に対して「考える」という言葉を当て嵌めるのは少し違和も出てくるのだけど、考える、という行動が見せてくれる面白さや気持ちよさはまあまあちゃんと味わえるじゃん、と思えているところもある。ある気がした。文章から状況を読解し、問い、という形に仕立て上げて、解答のための「式」を作り、計算して、回答を示してみせる、といった一連のプロセスを、なぞっているだけで、考えている、という感覚は、覚えられているな、と思った。誰かが考えてくれた「問題の隠されている状況設定」を前にしていても、考える感、は得られる。
▼▼考えることの面白さや気持ちよさ、っていう言いかたが微妙なのかもしれない、とも思った。単純にこの種の行為がぼくは気持ちよいのだ、でよいかとは思う。▼▼閃きの気持ちよさ、とは別口の、頭脳を働かせていることの気持ちよさ、というのが、あるのだろうな、という再認識だ。

判りやすい言葉選び面白い言い回し同一視

▼▼同じ話を書くのでも、もっと判りやすい言葉選びがあるじゃん、というツッコミと、もっと面白い言い回しがあるだろ、というツッコミを、なんとなく同一視しているところがあるなあ、と思った(面白いと思えてしまったものに対しては、判りやすい、というのも(混線的に?)判断しがちなところがあるようで、結果、同一線上にあるのでは、と妄想しているところがある気がする)

パーフェクトライフバランス

▼▼完璧を、理想を、求めすぎているあまり、変に神経質になってしまう、気にしすぎてストレスを生んでしまっている、と言えるような状況があるとして、いわゆるワークライフバランス、つまり仕事や家庭や遊びあたりのバランス、といったところに、そういう「完璧や理想から来る神経質さやストレス」を見てしまっているところが、あるかなあ、とふと思った。というか、完璧や理想を見ようとしてしまったうえで、いやいや完璧なバランスで生きることなんてほぼ不可能なのだし、そもそもそんな人もいないだろう、というツッコミ入れていることが、多いんじゃない? と気づいた。変に気にして、変に怖れているところが、あるかと思う。まあまあでよい、なあなあでよい、ふわふわなんとなくが結局は限界なのだ、と、気を抜くくらいでよいのでは? と、思い直したくなったのだった(思い直したくなっていることが、つまり多い、という話かな……)