▼▼抽象的な概念を操りながら、いくらもっともらしいことを言ってみても、当該概念そのものの具象化、というものは実際にはないことが多いので、現実問題として考えた時には無効、とまではいかないにしても、有効性が少々薄い――叩き台にしかならない、という状況に陥ることは、ある。多々ある。
▼▼抽象的な概念である「それ」に向かっていくら不満をぶつけてみても――批難し、否定するための根拠を並べ立ててみても、現実世界に「それ」そのものなどなく、諸々の事象の中に「それ」っぽいものが混じっているというだけのことであって、つまり、諸々の事象を構成している「それ」を見つめるならば、それと同時に、「それ以外」のところも見つめないと駄目――見つめて考えないと、駄目、駄目だったりするんだよねー、というような状況だ。
▼▼だからもしも、現実の、実際の、事象、の内側にある「それ以外」の構成要素が大切なものばかりであったら、たとえ「それ」っぽい要素を持つものであったとしても、簡単には、批難も否定も、できないのかも……。あるいは、合成されていく過程で、完全なるよきもの、に、変貌しちゃってることさえ、あるかも……。
▼▼とはいえ、抽象的な概念を操作している中で出てきた愚痴が、何を意味してるのかぜんぜん判らない、ということではない。ないよなあ、ということを考えていた。
▼▼その愚痴が、文句が、あるいは逆に肯定や称賛が、現実世界ではあまり明確な意味を持たない(的確な指示位置を持たない)ものであったとしても、思惑は、意志は、その感覚は、推察できる。理解できる、まあ認識くらいはできるんじゃないかなあ、って思ったのだった。
▼▼藁人形論法が、議論の態度的に、対話の有効性的に、正しくなくても(ウザくても)、そこから、なんにも引き出せない、ということではない、と思ったのだ。
▼▼まあ、間違った言い回し、境界線の曖昧な判断、から、何かを推し量ろうとしても、それも結局、間違っている(可能性が高い)のかもしれない、とは思うし、もし議論をしている最中であるならその「間違っているところ」を指摘して「もう一回」言ってもらえば解決することもあったりするだろう、とも思う。でもまあ、「もう一回言ってもらう」ことが可能な場面ばかりではなく、議論的な(議論の態度、対話の有効性、を相手にぶつけられる)言葉、ばかりでもない。とりあえずそれを解釈してみるしかない、という言葉が沢山あるだろう。
▼▼粗雑さ、偏見、見当違い、勘違い、観念的すぎる、というような「言葉に対する駄目出し」があると思うのだけど、そのことを理由に、「聞く耳を持たない」「何を言いたいのか判らない」と(受動的に)動くのは、少し違うのでは? いくらか異なるやりかたがあるのでは? いやまあ「ない」っていう結論でもいいんだけど、それならそれで、そのことをうまく言明してみせて地盤を固めるというか、やりかたがあるのでは? というようなことを、思った、のであった。思った気がする。