世界は称賛に値する

日記を書きます

より精密な納得を求める大人になった感じ

▼▼論理の接続の緻密さに対する、好み──しっくり来る具合、腑に落ちる具合、ばかりが、加齢につれて変わっていってる気がする、って不意に思った。論理的整合性に対する満足ゆくステージ、が、次第に移り変わっていっている、って言える。話題の切り口や話の伸ばしかた、ジョークの種類、あたりに対する好み、って、結局、幼い頃からあんまり変わってなくない? って思えたりすることがある、のだけど、好ましく思う「論理の接続の密度」については、なんか変質してきてる気がした、のだった。
▼▼意味に対する解像度が向上したというか、論理に対する解像度が向上したというか。
▼▼子供にするような説明で説得できると思うなよ──納得できなくなったぞ、的な形で前述の話を見直してみると、大人になって変わった、とかいうの、当然じゃない? という気もしてきたな。子供と大人じゃ説得のための精度が違うの当然じゃない?的な。
▼▼最初に「解像度が変わってきてる?ような?」って言葉を思いついた時は、世界を眺める時の瞳の解像度──ピクセル数や画素数の多さ、つまり細やかさ、あたりのことが比喩として思い浮かんで、ディスプレイやデジカメの進歩と同じような形で「じぶんも変化してきた」のかなー? って思いついた、のだけど、この疑問文のもとで、しばらく頭を働かせていたら、なんか違うかも、って思えてきて、改めて試行錯誤してるうちに、説明における解像度? って言葉が出て、あ、論理的整合性や納得、にまつわる細やかさ、とかのほうが適切そう──拘ってそう、だ、なんて思うに至ったのであった。
▼▼好みの文章の変節を辿っていってみた時に、結局、昔も今も同じようなものを好んでしまっている、と思えることは多かった、が、論理性や意味にまつわる解像度だけは、加齢に合わせて変わってきてるかも、と、今回気づけたのだった。
▼▼っていうのに合わせて──。
▼▼世界を感得する解像度、と、論理や意味に対する解像度、は別種で、じぶんが変化させてこれたのは後者っぽいなー、とも思ったのだった。