世界は称賛に値する

日記を書きます

歌の歌詞との同一視(物語の感情移入について)(混乱中)

▼▼ぜんぜん整理できてないところを書いておくけど……。


▼▼例えば、優しさを高らかに謳い上げた作品を大絶賛しておきながら──優しさっていうのはほんとうに大切なものだねー素敵だねー、なんてふうに言いながら、人様に対してぜんぜん優しくない人、を見かけたような時に、違和や不満を覚えたりすることが、少しある。わりとじぶんは覚えちゃうほうかな、って思う。これはつまり、作品と人間を同一視、というか、同質のものであるかのように──同質じゃないと駄目だ、同質じゃないと駄目だろ、って見做している眼差し、なんじゃないかと思う。
▼▼誰かが「大好きだ」と言っている歌、の歌詞(の内容)、なんかに対しても、同じように思う時が時々あって、うーん、例えば、ビートルズの「Imagine」を賛美してるなら「想像力豊かにいこう!」と思ってないと駄目、みたいな気持ちが、ある。たまに出る。
▼▼けど、これ、逆に言うと、破滅的で破壊的な歌詞を好んで聴いている人に対して「それを望んでるところがあるんだろう?」とか思っちゃう時があったりする……、ってことにもなりかねないんだよなー。っていうかなるだろうなー。いやまあそして、多少は思ってるところはある、って気もするので、微妙なところなんだけど……。
▼▼しかし、いやそういうことじゃないんだよ……、好きな言葉、と、人格や性格、は別だろ、という判断だって当然判る。無論判る。すごく判る。じぶんにだってそういう「別に破滅を求めてるわけじゃないけど破滅を謳う歌詞は好きなんだ」みたいなところがあるし。(しかし、心のどこかで、破滅、破滅の美、みたいなのを感じてるところがあるんじゃないの? と聞かれたら、多少、言葉に窮する、ような)


▼▼このあたりの諸々から、以下のあたりがちょっと関係し合ってるのかな……、って改めて思ったのだった。
▼▼創作物自体、と、受け手ないし作り手の人格、との切り離し(接続、同一視)の話。
▼▼歌において、歌詞を中心に聴く人、と、音楽を聴いてる人の話。
▼▼物語を触れる時に、主人公、もしくは登場人物に、感情移入?──同一視? するかしないか、みたいな話。▼▼する読みかたとしない読みかたの話。
▼▼の三つだ。


▼▼じぶんは、わりと、主人公とシンクロするほう、ではあると思う。主人公の立場に立ったら、というのをすごく考えるし。
▼▼ただ、シンクロのしかた、も、複数あるんじゃない? と、最近少し思う。
▼▼主人公の心の動きについていく、っていうような形と、同じ状況だったらじぶんはどうする、的シミュレート、は、少し違う気がする、というか……。
▼▼主人公に乗り移る、じぶんを乗せる、ってのと、主人公の状況や設定をもとにシミュレートしてそれを使う、ってのは、少し、位置づけが違うような気がするのだ。
▼▼ただ、シミュレーションしたあと、それを、物語側あるいは主人公側、にフィードバックしてみて、主人公がそれに近いことやそれ以上のことをやってたら、楽しい! とか思い始めるノリも間違いなくあるので、それが「主人公に乗り移る」とどう違うんだ、と言われたら、ちょっと、言葉には窮する。まだ混乱がある。
▼▼それでもなお、語られているキャラクターの言葉や感情をコピー的にじぶんに乗せていく、っていうのと、キャラクターの環境とか性格とかを頭の中でシミュレートしたあとに、それを下地にして、あるいは参考地図にして、感情を理解?体感?していく、のは、違う気がする、んだよなー。▼▼違うと思い込みたいだけなのかなー。