▼▼正しさの話は放り投げて(こんなのいらなーい、と、いったん横に置いてみせて)、好き嫌いや快不快の話を通しながら人生の注意点を語ったほうが、言論としては「皆様の幸せ」をほのぼのさせる効果を持つ印象があって、だからそれが好き、口にするのも聞くのも好き、というところはあるのだけど(ほのぼのさせられるの、けっこうよいね)、ぼくやあなたがちゃんと幸せっぽい雰囲気になるには、腑に落ちる以上に馴染ませるには、うーん、なんというか、おそらく「ちゃんと支えのあるしっかりとしたものにする」には、正しさの話を混ぜるのも必要っぽいなあ、という感覚がある。
▼▼でもって、正しさという概念は、社会性というか政治性というか、集団的、組織的、なものを素地として持ってしまっているところがあるので、じぶん一人の話、あくまで個人的な話、というふうに予防線的な境界線を引いて話そうとしても、社会が、他者が、混じってきてしまう、どうしても滲んできてしまう面もあって、そのあたりちょっと難しくなってきたりする、という感覚もあるかなー。だからこそ支える柱になってくれるのかもしれないけれど。