世界は称賛に値する

日記を書きます

日常乱雑文章(箇条書きというには長い)

▼▼日常は、様々な要素が乱立している。並行し、同時進行している。ごった煮というか支離滅裂というか、ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃで、しっちゃかめっちゃかである。というのを描写してる日記ってあんまり書いてないなと思った。改めて認識すると、多少の欲は湧く。書いてみたくなる。


▼▼言葉にする、整理する、というプロセスの中で、現実や実感や経験、から、少しずつ乖離していくところが、やはりある。これを引き留めようとして、喧嘩するというか、抗う、争う、ギリギリのところを理解し、踏みとどまって、利潤最大化を目指す、というような動きが、つまり、文学、なのかな、って思った。とはいえ、利潤最大化なんていうような「判りやすい姿」を見せちゃうと、また、文学から離れる気もする。


▼▼言葉を尽くすこと、単純に切り分けて判った気にならないこと、が、実感と言葉の乖離を避けるやりかた(の一つ?)だ、と思っているところはある。しかし、この考えかたに頼ると、詩歌の位置づけが怪しくなるので、なんか違うな、とも思っている。


▼▼生活感というか生活臭というか、日常の雰囲気、的なものを、実際のところ、日記にあまり出していない気がする。諸々の要素が絡み合う日々の、絡み合いを、きちんと描写してみせることで、生活臭が出せるんだろう、なんて思っているところがあって、でもなんか、様々な要素が絡み合った姿、を書くことは、少ないのだった。避けてはいない。生活の匂いがするものを避けている、っていうよりは、趣味嗜好に合うものを書いてるとどうしても、生活の匂いから離れていってしまう、って感じだ。


▼▼解きほぐしてゆく、一個一個にばらけさせる、分解、分析、というものらが、やっぱり、目線として好き、なのはある。好きな方向性だと言えてしまう。気持ちよい。


▼▼文学の「実感と言葉が乖離しないよう抗い続ける」雰囲気と比較しながら、哲学のことを考えていて、このあたりに違いがありそう、って思った。以前から哲学と文学の比較は、楽しく、してしまっているのだった。とはいえ、このあたりに潜んでいそうな違いはうまく言葉にできなかった。哲学は哲学で、実感から離れては駄目だ、と思っている気がしている。でも、文学の「ギリギリを目指すバランス調整」のような動きではない、気もするのだった。実感を「ベースにする」?感じはあるけど……。


▼▼閃きとして、文学における「実感と言葉の離れ具合」はアナログ的に(言うなればグラデーションのような形で)測られてるけど、哲学における「実感と言葉の離れ具合」はデジタル的に(言うなればレベルのような形で)測られてる気がする、っていうのが出てきたりした。文学は明確な目盛りがないので感覚で最大化を目指すけど、文学は目盛りがあるような世界観なおかげで、逆に、多少は目盛りが下がるのを許容してる、というような形かなあ。うーん、整理甘いな。


▼▼文学も哲学も、言葉と実感を「寄り添わせようと」するとは、思う。けど、寄り添わせようとしてる時の「態度」が違う、のか? 哲学は「論理的正当性」のもとで、逆に文学は「???」のもとで──。ここ、出てこないな。人間性?みたいな粗雑な単語が、むしろ合うような気すらした。あるいは、寄り添わせようとする「もの」が違う? 文学は言葉の「雰囲気、語感」を? 哲学は「論理的意味」を? 単語選びがむっちゃ雑。


▼▼学術書でヒント得られそうな話だな……。なんか読むのもよいと思った。
▼▼頭の中の動きをごった煮的に書いた。