世界は称賛に値する

日記を書きます

見つけられてない物差しも、まだまだ沢山

▼▼熟練者や上級者、専門家の話を伺うと、不勉強が身に染みる、というかなー。眼差しの粗さが気になったりする。見るところ、測るところ、に関する未熟や不足を感じてしまうのだ。なるほどそういうところを見ればいいんですね……!って「学び」がほんとうに沢山あったりする。これまで見れていなかったことが、判る。判ってなかったことを思い知らされる。
▼▼このあたりに対して、刺激が受けられる、というか、訓練?増強?あたりに繋がる印象があるので、美術館が好きなんだ、って昨日の日記では書いたのだけど、劣等感的な刺激を受けるところも同時にあって──ぜんぜん駄目じゃん……、じぶんはこれを評価する物差しに気づけていないじゃん……、いや気づけてなかったな……、なんて思わされるところがあったりして、まあ、そういうのも含めて好きなんだと言ってしまえば好きなのだけど、でもまあ若干、単純に悔しさを出してみせたくなるところも、あったりはする。
▼▼まだまだこういうのはよく判らんな……、って言いたくなるような範囲が、何時までも何処までもほんとうに沢山あって、先は長いなあ、マジ大変だなあ、辿りつけるかなあ辿りつきたいなあ、って、暗澹たる気持ちになったりするし、とても真面目に、真摯に、真剣に、長時間取り組んでいかないと、このあたりって結局はちゃんと鍛錬できないっぽいんだよなー、なんて考えて、普段の学習サボりに対して改めて凹みたくなったりもするし、人様に、さも当然のことであるかのように「この作品ってこういうところがよいよねえ」なんて言われて──言われるまでぜんぜん気づけていなかったところのことをすごくあっさり言われてしまって、うえーん気づけてなかったよー、って、内心で静かにダメージを喰らったりもしているし。
▼▼しかも、世界のすべての「面白そうなもの」に対する「面白がれるだけの物差し」を見つけ出してる時間も、人生的にはなさそうで、足りなそうで、そこも、なんか、嫌だなあ、哀しいなあ、って思ってるところがあるし。
▼▼あとまあ、自ずから気づきに至ったほうがよいのか、師匠筋というか人の話も聞いて学んだりもしていったほうがよいのか、いやまあそのあたりは結局合わせ技とか両輪になるにせよ、実践と理論の響き合わせになっていくにせよ、まあでも、比率の問題とか、あと、ここだけはじぶんで辿り着くべきところ、みたいな核とか本質みたいな話とか、そのあたりも考えないと駄目っぽいか、とも思うし。
▼▼我が儘や欲張りの話だなー、っていうか、身の丈に合った物を求めよう、身の程をわきまえろ、っていうか……、世界の広さと人間に可能な範囲、じぶんに可能な範囲、というのを改めて考えておかないとね、みたいなことも当然思うわけだけど、でもまあそれはそれとしてさー、と、言っておきたくはなる、んだよなあ。いや、とはいえぜんぜん、それはそれとして!って言葉で納得できてなかったりもするから、ただ単に、口当たりや耳障りに合わせて言葉を選んでいるだけではあるけれど……。