世界は称賛に値する

日記を書きます

子どもの頃の一日を日記として書けるか、と、出てきにくくなった記憶

▼▼数日前に、子どもの頃の一日を今改めて日記として描写できるかな? と思って、想像してみたら、難しかった。捏造でも切り貼りでもよいから「ある一日の流れ」の記憶を安定的に構築できないか、ってのさえ困難だった。
▼▼接合部がぎりぎり異音を立ててた。
▼▼というのに無意識に衝撃を受けてしまった、と言えるのかなー。
▼▼このことによって、ぼんやり、ふわっと、何となく、意識と無意識が「自分史」的なところに向いた、というのがあったのだった。
▼▼社会の出来事や周辺の出来事──調べれば判る事実、から調査を始め、記憶と歴史の隙間を、改めて一歩一歩、踏み締め、踏み固めていくことで、出てきにくくなった記憶を出せるようになるんじゃないか、っていうような期待を抱いてしまったのだと思う。
▼▼汚れて詰まった記憶のパイプに向かって、歴史的事実や明瞭な記憶を呼び水にすることで、すぽんっと詰まりが取れてくれることを期待してる──すぽんっという詰まりの解消の気持ちよさを味わいたがってる、ってだけな気も、まあしてる。
▼▼記憶が出てきにくくなってることに気づいた結果、詰まりの取り甲斐がある、なんて思って、わくわくしてるような雰囲気も、少しあるのだよなー。
▼▼出てきにくくなった記憶も含め、記憶が完全消滅することはあまりなくて、改めて別のところから辿ることで辿り着けたり──関連的な呼び水誘い水を活用することで呼び出せたり、するので、糞詰まりになっても心配することはないですよー、という楽観的な背景を背負っている、のも、まあ関係してるかな、とは思った。