世界は称賛に値する

日記を書きます

幸せ解釈ソフトウェア

▼▼平和な日だったけどそもそも平和じゃなかった日なんてそうそうなかったんでは、とも思う。わりと平和な日々だ。平和じゃなかった日なんて年に数回あるかなあという感覚がある。これは幸せなことなのかな? 恵まれていると言えてしまうのか? というようなことを考えてみたけれど、相対的になら、まあ、なんとでも言える。相対的にはなんとでも言える中で、平然と、すっきりと、脊髄反射気味に言えてしまうことこそが、絶対的なものなのだ、というようなことを思っているところはあって、つまり、相対的な判断はどうせ直観的な実感には敵わないよね、というようなことを言っていることになるわけだけど、ああ、そうか、うーん、なるほど、そういうことを言ってることになっちゃうんだな、と思ってみたところ、それは言いたくないな!ってなってきたので、取り下げようと思った。相対的な物事への見方を使って幸せを覚えるのと、絶対的な感覚に頼って幸せを覚えるのに対して、思っているのは、優先順位とかじゃなくて組み合わせちゃおう、という雰囲気のノリであって、言ってしまえば良いところ取りがしたいのであった。たとえ狡くてもダブルスタンダードであっても、うまいこと道を通したい、回路を通したい、理路を通したい、誤魔化し誤魔化しであろうと、多少見た目がごてごてしてこようと、最後までやりきってしまいたい、というような欲だ。
▼▼緻密な、そして複雑な、あるいは裏をかきまくるような裏技的な思考回路を構築することで、幸せが妙に貯まりやすくなる世界観を築けるのかな、ということは思う。築いてみせましょう的な欲もある。ただ、ごてごていろいろパーツを付けると、あるいは、いろいろ機能をハックしてくれる常駐ソフトを増やしていくと、重くなる、というイメージはコンピュータ等から思っているところがあって、思考が遅くなる、みたいな弊害が出てきたりするのかな?と発想もしてみた。いろいろ考えてしまうせいで、頭が、躰が、フットワークが、重くなる、が、そのぶん、いろんなものに対して幸せ解釈ができる、多様なフォーマットに対応できる世界再生ソフトウェアを所持できる、なんてイメージだ。