世界は称賛に値する

日記を書きます

フィクションは真に受けてるけど、正しさという話には持っていかない

▼▼インターネットで聞かせてもらった話をけっこう真に受けている。小説や漫画やアニメや映画や演劇に関しても、けっこう真に受けながら生きてきたほうだと思う。フィクションとノンフィクションに境目なんてない、とまで無分別にやってきたわけではないのだけれど──つなぎ合わせる時に、いちおう多少は、適当な接着剤を使ってみたり、改造的に変形させたりはしたり、してはいたのだけれど、縁を切らせようとしたことはない。世界を学ぶ素材として区別したことはない。ああいうことがあったからこの世界はこういうものなのだろう、という理解を、現実からも、フィクションからも、まあまあ同じように造ってきた。物差しを造ってきた。造ってしまうような真の受けかたがあった。けっこう素直に繋げている。現実と虚構の境界線を、だいぶ、意識的に、曖昧にしている。
▼▼という雰囲気で形成した「世界っておおよそこういう感じっぽいな」というイメージが、まあまあ悪くない感じで、うまくやれたな、って感覚はあるのだけど、なんかでもまあ、運よくうまくやれただけだろう、ということも思ったりしている。現実もフィクションも意に介さず、とにかく得てきたものを抽象化して理論化してみたら、けっこうよいところを抽出できてよい感じに理論化もできたわけだけど、手づかみして引き上げた「抽出ポイント」は、結局、幸運にだいぶ頼っていた気がする。
▼▼というようなことを最初は思っていたのだけど、フィクションと現実の区別がついていないぞコイツ……、というやりかたでやってきて、うまくやれた(気がしている)のは別に、運がよかったから、ではなくて(運よく「よいところ」だけ抽出できたから、ではなくて)、正しさ、という種類の物差しを極力避けるのが好きだったからじゃない? という気がしてきて、あ、そうかも、と思ったりしたのだった。▼▼フィクションから、現実から、学んで、あ、これが「正しい」のだ、と、思ったことはない。こういう時にこういうことをすると「正しいと言われる」んだ、という学ぶことはあったけれど……。とにかく、正しさというものを、そういう形でしか使ってこなかった。体感してこなかった。だからその結果、学びが、現実と、ぶつかり合うことが、少なかった、ということなんじゃないかなー、と思ったのだ。勝手に折り合いがついてくれた。正しさを背負おうとしなければあんまり世界とはぶつからない。
▼▼(ただまあ、正しさを謳う、という事柄から逃げ回ろうと普段から意図していることによる弱点は発生しがちでなり、その手の弱点に対する対処は、まあ、微妙だ。難しいし大変な印象である。しかし、この「正しさを謳う」ところは、フィクションから(も)学ぶ、とかそういう話とは別になったりするのでは?)(そこを別にしちゃうとまたなんかこうややこしいけれど……)
▼▼物語も体験談も実経験も、サンプルであり、等しく学ぶ。帰納法では正しさには辿り着けないので正しさは謳わない(確率論的、統計的、な話は無論できる、のでする)。こういう手練手管、というか、言い回し、が、まあ、うまいこと噛み合った、というだけな気がしていて、あ、噛み合ってるだけか……、と気づいたので、言葉にしてみた、という状況になるのかな……。ここを背景に考えられる事象がちょこちょこある気はする。現実とフィクションの区別、っていう論旨も、ここからスタートになるしな……。