世界は称賛に値する

日記を書きます

エリクサーもったいない話、と、戦力の逐次投入は愚策中の愚策の話、を比べるなら(混乱)

▼▼戦力の逐次投入をしがちである、駄目だぜ、という話をしようとして、エリクサーもモッタイナイとかすぐ思って取っておきがちだしね、と書こうと思ったのだけど……、いや、違うか? エリクサーモッタイナイ精神をわりと持っていて、駄目っぽいぞ、戦力の逐次投入は愚策中の愚策って言うしな、と書こうと思ったんだっけ……。
▼▼順番を忘れた。
▼▼いずれにせよ、似てるなあ、って思いついて、けれど考えてるうちに、これ、似てるか? と思えてきて、迷ったので、混迷付近だけ言葉にし始めたのが、今である。
▼▼エリクサーのほうの話は境界線が曖昧すぎるんだよなあ、って思った。エリクサーに対する過保護がエリクサーを無駄にする、って話、状況設定変えられすぎ、というか。状況によりすぎる。詳細によって似せられたり似てないように仕立てたりできる。



▼▼最後まで使わなかったにせよ、結局クリアできたならいいじゃん、勝ちじゃん、勝利したことを踏まえた話を「戦力の逐次投入は敗北に繋がりがちだから、愚かだ」って話と比較するのキツくない? っていうのを、まず思った。
▼▼というか、使わずに残ってたら、それは「無駄」なのか? とも思った。
▼▼エリクサーの話は、大切にしすぎの話、大事にしすぎの話、過保護問題、なんてふうに言えそうだけど、戦力の逐次投入の話は「過保護問題」かなあ?
▼▼戦力の逐次投入の話は、相手の戦力をきちんと見定められていない、って話、と、不測の事態を怖れて手元に戦力を置いておきたがる──ビビるねえ、って話、に区別できそうとも思った。これをエリクサーもったいないの話と繋げられる? いや繋げられるだろうけども、ここに「過保護」の話が混ざってくると判りにくくなるなあ。
▼▼三つの論点が混じってる、ということでよい?



▼▼戦術論的な「戦力の逐次投入は愚策中の愚策」って切り口と照らし合わせようとするなら、エリクサーも「少しずつ消耗させていってしまい、結局、足りなくなって、ボスに勝てなくなる」ような形状を想像しないと駄目だろ、とは思った。
▼▼テレビゲームだと、コンティニュー、ができちゃうしねえ。エリクサー側の状況設定はそこをどう見るかで変わるだろう。▼▼コンティニューしたあと、消耗アイテムが減ってるか、復活するか、でもおおきく違うと思うし。
▼▼消耗品が復活する場合──戦力の逐次投入、側で相当する設定は「人員がとにかく潤沢で、削れることが問題にならない場合」になるかな?──だと、戦力の逐次投入は愚策中の愚策、とまでは言えない、のでは?
▼▼いやでも、消耗したエリクサーがコンティニュー後に復活する、ような場合でも、逐次投入で勝てない状況が続いたら、結局、飽きてやらなくなる、はありうる、か……。そして、テレビゲーム的に「飽きてプレイされなくなる」という状況もまた敗北である、と捉えるのはアリかも……。▼▼戦力の分量が問題にならない(から、逐次投入し続けてても大丈夫)と思われるような状況でも、やる気とか熱意とか、が削れていくために、逐次投入は愚か、って言えることはありそう、である。