世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年06月02日(火)だれもかれもそんなふうに自意識と

付き合い方みんなうますぎ

クリエイター寄りの著名人を見ていると、「自意識」や「自作への執着」と、あまりにもうまく距離を取り過ぎなんじゃないの、って気がしてきて、ちょっと気に喰わない。作品なんて書き終えたあとはすぐに脳裡から消える。振り返ることなんてほとんどない。どう言われようと気にもならない。ぜんぶ終わったことだ。自分とはもう関係ない。みたいに感じられる人間であれば、結果として、フットワークが軽くなり、次々と作品に着手していくことができて、傑作や名作にも手が届きやすくなるのだ、といった構図があるのは、わからないでもない。だから、そういうふうにあれるなら、間違いなく、有利ではあるんだろう。だから、推奨するひとは、いくらでもいるんだろう。

だからといって、「そうじゃないとダメ」みたいな空気を出されるのは、納得いかないな、ってときどき思う。違和感はぬぐえない。というか、けっこう嫌いな感じだ。

「自意識は捨てたほうがよい」はわかるけど「自意識なんて捨てちまえ」は言い過ぎなんじゃないんスかねさすがに、とか思っている。いや、たとえば、師匠が弟子にひとつの厳格な指南として、そういった正しさを見せようとしなければならない場面がありうるのはわかる(ほんとうに「捨て」ないと、たどりつけない境地や、たどりつけない人格があるだろうことも、一定、想像できる)。しかし、それはそれとして、「自意識」が「悪」認定されるような言い回しは好きじゃないぞ、とは思ってしまうのだった。

悪者は言いすぎ

ちょっとね、悪は言いすぎだよね、と思うのだ。言いすぎというか、たぶん、ぜったい言っちゃダメでしょ、くらいの強気な気持ちがある。「自意識」の弊害を知るのはたしかに大事だ。ほどよい距離でつきあっていけるようにするのも大事。けど、かんたんに「悪者」と決めつけて、嫌って、あなどって、無視しはじめて、目配せすることすらしなくなってしまったら、それこそ人格自体が終わりじゃん、みたいな危機感がある。

自意識の厄介さは理解しつつも、とはいえ、「自意識に始まり、自意識に終わる」みたいなことを、思ってはいるっぽい。だから、見ることすらイヤにさせるような説明はしないでほしい、と思ってしまう。