世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年05月29日(金)だから褒めちぎってない風にする

ツッコまれないよう出力ギリギリで差し替える

「この作品は素晴らしい!」「もう完璧じゃん!」と、衝撃を受けて、とある作品を絶賛してみたはいいものの、題材になっているほんとうの現場・現実を知っている人から見たら、甘い粗いのオンパレードで、リアリティなんてなく、ただ体裁をとりつくろっただけの、うわべだけの作品に過ぎない(とツッコまれかねない)場合は、もちろんある。無知だから、浅慮だから、都合よく、素晴らしいように見えているだけ。

無邪気に褒め称えたあとにそんな無粋で悲しいツッコミを受けることのないように、そのために、まるごとぜんぶは褒めちぎらないように、気をつけたくなったりする。体重を乗せすぎていないと「思われる」ための、留保のことばを吐くための、ちょっとした調整を入れねばと考える。

きのう書いた「差別や偏見を表に出さないための言葉の調整」と同じ話になってきそうだ、って思ったけれど、こういう、出力ギリギリのところでキレイな言葉に差し替えました、っていう振る舞い、どれくらい意味あんのかな、ってときどきは考える。ごまかしや欺瞞の匂いも気になってくる。

最終的に物理的世界に発せられた言葉がどういったものであったかが、この世において、とても大事になってくることは、もちろんあると思う。相手にどういう単語を見せたかで変わってくる部分はそりゃいくらでもある。そしてまた、ぼくの内面にフィードバック的に跳ね返ってくる影響において自分の選んだ言葉が大事になってくることも、もちろんあるだろう。そのあたりを注視して考えるなら、ちゃんと調整していきましょう、とはたしかに思える。が、しっかり全体像を見回してみたときに、どういう調整がどれだけちゃんと意味を持ちうるのか、ほんとうの有益になりうるのか、ややあやしいな、とも思う。