思想や主義なんてない
「思想」とか「主義」とか、そんなものが、さも、ほんとうに「在る」みたいな顔をして、いろなものが語られてはいるけれど、ほんとうに自明視しちゃってよいの?と、昔ははなっから疑ってかかっていた。なんとなくそれを思い出した。というか、いつの間にか忘れていた。人間が集まったときに生まれる"うねり"のようなものが、たしかになくはないのだとしても、そういうものが、時代を作り、世情を作り、言及ができるくらいには頑強なものとして存在している、と認めてはいなかった。
とはいえ、ほんとうにそういうものがあるなら、それはおもしろい。それに、一定はあると認めないと見えないものも立ち向かえないものもあるみたい。要するに「社会」というまとまりを前提に、それらの空気感を認めたくなるところは、まああった。認めないのは、さすがに無理があるかなとも思えた。
ひとが集まれば、そりゃ、多少の方向や傾向は見えてくる。そういうものを見通すことくらいのこともきっとできるんだろう。それに、見通せるなら見通したほうが「便利」だ。役に立つ。だから、あるという所作でふるまおう。そういった事情、つどつど、頭に中に染みこんできて、いつしか、まるっきり疑わなくなっていた。それどころか、「思想」というお題も「主義」という切り口もすなおに好きになっていった。
実際の制度
話の角度が変わってしまう気もするし、微修正のための追記になる気もするけれど、人々の集合や総体としての「思想」「主義」が、たとえそんなふうに明らかな形としては存在しないのだとしても、それはそれとして、そうしたごちゃごちゃとした集まりの中から生まれてきた制度設計、統計情報なんかはあるはずなんだよな、と思う。こっちは明らかに在る。
人々の集合的無意識が、たとえば「民主主義」的なものに即して、動き、語れる対象としてあるのか、と言われたら、確定させられない気はするけれど、しかし、実際に、民主主義という構造を取りいれた国がひとつできたのであれば、あるいは、そういう国が増えつつあるのであれば、それを"うねり"として、なにがしかを語っていくことは可能だろう。このあたりの問題を混同していそうだ、とは思った。