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日記を書きます

2025年12月24日(水)ちょっとそこには適さぬ言葉

入れ替え可能な単語とはなんなのか

正確にことばを選ぶ気概があいかわらず足りない。あらためてちょっと反省した。基本、ことばのピントをぼやかせたまま乱暴に取り扱っていて、えいや、という投げやりささえ垣間見える。ということを、さいきん、痛感させられる機会が多かったので、いろいろかえりみているしだいだ。ずっと同じ問題はかかえていて、そうかんたんには直りそうもないのだけど、まあ、気にしていける範囲では気にしていきたい。一定の基準やルールを形成できれば、ときどき自分で気づくくらいはできるんじゃないかと期待したい。

たとえば、直近自覚した事例でいうと、「していなかった"ので"」「していなかった"ため"」は、おそらく入れ替え可能だが(多少の違和感くらいで済んだりしそうだが)、逃げずに精査し続けたら、意味の違いくらいとうぜん見えてくるはずで、けれど、実際の自分の使用シーンをながめてみると、選ぶときの選択基準が、だいぶあやしい。雰囲気。リズム。なんとなく。

ぱっと調べてみても、「ので」は話し手の主観的なこと(理由)、「ため」は客観的・分析的なこと(原因)に使う、みたいな形で、辞書的な説明はおこなわれていたりする。なんでそんな人類が慣習でなんとなく取り決めてきたであろう今時点のルールの顔色をいちいちうかがわなきゃならんの?とも、じゃっかん思わなくはないが、だからといって、細やかな境界線を見定めうる技術や精神なんて持たない(そんなの持たなくていい、と、ふんぞり返ってみせる)理由にはならんでしょ?とも思う。同じようなところでいえば、「けど」と「が」なんかも、ふわっと使い分けているだけだし。

たとえば「殴打する」「攻撃する」「破壊する」「殺傷する」あたりには、似た現象がふくまれるとは思う。ベン図的に重なるところはある。でも、現象の切り取る範囲や角度、レイヤー、時系列などが厳密には異なっているはずじゃん、とも思う。まったく同じ位置づけではない。上位下位とか、ポジティブなニュアンスだとか、生物だけに使うとか、示すところや示し方がちょっと違う。こういった単語のあいだの距離を、「いや、ちょっとのズレ(距離の遠さ)は、むしろ比喩って感じでしょ」くらいの言い訳によって、勝手に無しにして、入れ替え、したり顔していることさえある。ほんとうに細やかな意味の違いまでしっかり考え抜いて言葉の取捨選択をしているひとの話を数回見聞きしたため、さいきん、このあたりが気になるようになった。