一般論に押し切られる
ひとはたいていこういうときにこうする、こうされるとどうしてもこうしてしまう、みたいな一般論が、耳に残っているときに、自分がそれをしているのに気づくと——少なくとも、客観的には、「こういうとき」に「こうしている」状態になっていることを感じると、自分もそれを(一般論的なことを)やってしまっていたな、って判断してしまいそうにはなる。話をそこで終わらせてしまいそうにはなる。
たしかにまあその通りだった(一般論的に言われてるやつでした)、と、最終思えることはもちろんあるけれど、逆に、今回のやつは、ただ、ぐうぜんタイミングが重なったというだけで、別にそういうことではないのでは?と思えてくることもある。違和感もたまにある。
たとえば、褒められないとやる気をなくす、いつのまにかやらなくなる、といった一般論があると思うのだけど、「たしかに褒められてはいなかった」そして「やらなくなっていた」のに気づいたときに、「これ、褒められなくてやる気をなくしてやらなくなってたんかな?」って気分には、なってくる。言われてみればそんな気もしてくるし、いや、それとは関係なく、ただ忙しかっただけなんだけど、みたいに思えてくるときもある。
いずれにしても、一般論を「押しつけられた」みたいな空気になることもあって、そして、それを自覚できなこともときどきあって、怖いは怖いな、とは思うのだった。一般論の「型」を、自分に当てはめて、よしとしてしまっていることが、たまにある。