世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年10月24日(金)忘れちゃってもとうぜんいいんだろうが

侮辱を許すか

過去の侮辱を忘れない、ぜったいに許さない、みたいな精神も、それはそれであってよいんだとは思いたい。器の大きさで許せるような精神も、とうぜんあったほうがよいとは思うのだけど、許さないとダメってなっちゃうのは、さすがにしんどい。最初っから平然としていられるなら、それもむろん非常に素敵なのだが、だからといってそれがあたりまえになっても困る。

尊厳を深く傷つけられた、大事な物や人を傷つけられた、自己肯定感を毀損させられその傷は癒える気配もなく血が流れ続けている。そういった大きなダメージが、過去のいつかにあったとき、のちのち、どこまでを許すか(許さなければならないか)は自分で決めていいし、そもそもなにが大事であったかも自分で決めていい。いいはずじゃん、て思った。いちいち一般論や空気に流されて決めるようなもんではない。というふうに頭のなかを整理していた。わけわかんなくなってきたため、見つめ直した。

見下し後

一定の明確な見下しのようなものを喰らい、傷つけられた感がけっこう残ったあと、わりとふつうの関係性を築けたときに、そこにある関係性と、過去の傷を、どういうふうに捉え、感じ、考え、振る舞えばよいんだろうな~、ということを考えたくなった。

ほだされそうにはなる。許したほうがよい気だってしてくる。いちいちそんな終わったはずのことを気にしていること自体、ばからしくなってきたりもする。時間の無駄じゃんって感じる。けれどほんとうに「終わったこと」なのかとも思う。勝手に終わったことにしてんじゃねえよとも言いたくなる。勝手に終わらせて、ヘラヘラしている自分の振るまいが、余計に気になったりもする。媚びへつらっているかのように見えてきたりすることもあるだろう。いろいろな側面に振り回される。

恨みつらみや、復讐の念を、執念深く抱き続けることが、決して悪いってことではない。悪いとは思いたくない。もちろん、おおらかに、「そもそもどうでもよい事象じゃん」って受けとめられるなら、それも悪くない。別にどっちがよいとかない。どこまでならよいとされる線引きとかもない。つまりどうすればよいかはわからない。というか、自分で決めるしかない。そして、決めていいんだろう。解答のなさが身に染みるなあ、とは思った。