後悔と反省
後悔と反省じゃあぜんぜん違うよ、なんて言われたりする。「後悔」「反省」「自戒」「教訓」あたりのあいだに引かれる「線」にスポットがあたることは少なくない印象だ。ふだん混同されがちだし、しかし線引きこそが大事だったりするんだろう(大事だと見做されるケースが多いんだろう)。同じようなところでは、「悩む」「考える」、あと「迷う」「困る」「苦しむ」あたりのあいだにある「線」がフォーカスされる場面もたまに見かける。
まあでも、実務のうえで言うのであれば、ことばの定義などよりよほど優先されるべきものがある、という考え方だって、もちろんあってよい。それが後悔と呼ばれていようと反省と呼ばれていようと、次のステップに向けてしっかり活かされているのなら、なんでもいい。ケースバイケースだし、あつかいかたしだいじゃん、っていう考えかたは、とうぜんありうる。
実際になにかを解決させられていたなら、つまりちゃんと成果が出たなら、あるいは、最終的に問題視せずにいられるようになってしまっていたならば(問題を雲散霧消させることができていたなら)、そうして、人生に意味や価値があたえられたんだったら、ことばの細かい差異なんか、関係ない、って言われたら、そりゃそう、って思う。
口先だけと行動のともないも、ときにどちらでもいいかも
おとといの日記に書いた、「謝ればいい(謝罪のことばが口から発せられていればそれでよい)」と、「謝るだけじゃダメでちゃんと直ってなければ許されん(改善のともなわない口先だけの意味がない)」の、差異と、大事さの話も、しかし結果的に物事がちゃんと回っているなら、そういうよい解釈が描けているなら、もうなんでもいいじゃん、という気もしなくはない。こだわりすぎていてもそれはそれでよくない、というのは、正直あるんだろうとあらためて思う。