謝罪だけ
謝罪させてもらえたならスッキリする。それで許してもらえたなら、なおスッキリ。「あやまる」については、そういった構造的な「暴力性」や「独善性」や「自己満足」の問題があるよね、といった問題提起がときどきあって、わかる、とは思う。謝るのも許してもらうのも、自己都合によるズルさがともなうときが、どうしてもある。
そして、「反省しましたー」にも、けっこう同じ匂いがあるじゃん、っていうのも、まあわかる。反省したポーズだけ、反省した心の動きだけで、だいぶスッキリできるのは事実だ。別に、それが本心からのものであろうと、演技じみたウソとごまかしであっても、スッキリできる部分はあんまり変わらないとも感じる。
改善もともなわないなら
だから、そういうところに対し、「改善されなきゃ意味ないじゃん」みたいなことを言いたくなる気持ちも、わからなくはない。「反省しましたー」と言っただけで、まるごとよしとされていたらたまらない。
個人的な方針としては、「反省なんかに意味はない」「改善をともなう省みにだけ価値があるんだ」なんてことは、まったく主張したくないのだが(基本は嫌いな見解)、しかし、ほんとうに「反省したポーズ」だけにしか見えず、さらには「改善はまったくされない」シチュエーションもあって、結果、そう言いたくなる事態があるのも、もちろん想像はできる。ときには当然の指摘になる。
日記でふれてればよしとしているとき
日記で言及していれば、つまり、ぼくにはここの問題(反省点・改善点)が見えていますよ、って公言していれば、容赦される、赦免される、みたいなことを思っているフシが、ちょくちょく見られる、と、日記を書きながらときどきは思う。ひとと話していても、視野の中にそれがある、って事実を伝えていれば、不便をかけていても、未熟でも、まあよし、ってしてもらえるんだろうという楽観と甘えが、たまーに垣間見える。
反省しかできん
反省の話をしたとき、上記のようなことを考えて、「いつも「反省しましたー」だけじゃダメなんだよなあ」って考えてしまったりもするわけだけど、しかし、どうしたって直しようがないポイントだて各自の人生には間違いなくあるはずで、そんなところまで毎回「反省しなきゃ」と思っていたら、時間がもったいない。自身に対する悪影響もきわめて大きそうである。だから、「謝るだけじゃダメ」一辺倒じゃ、それはそれでよくないはずなんだよなあ、とも考える。答えはないが、思いこまないようにはしたい、とは思った。