現実に寄り添うようになっていく
現実を生きていると現実に対する知見はたまっていくので、どんどん、現実にちゃんと寄り添った話ができるようにはなっていく。そうして、地に足のついていない話は、つまり理想論は、語る機会が少しずつ減っていく(ことが多いかと思う)。結果として、あとから見返すと、その語り口が、青臭く感じられたりもするんだろう。
酔いやすいし
もうひとつのパターンというか側面があって、理想論って見た目は美しいことが多いので、酔いしれがちだし、自己満足に浸りがちだと思う。恰好つけたくなってすぐそっちにいく。逃げ場にもしやすい。結果として、口にしやすくはなる。少なくとも、言うためのインセンティブがある。
現実を知り、その話をする
それはそれとして、「現実を学んで、現実的な話をするようになっていく」にも、ふたつの種類があるんだよな、と思った。
ひとつは(上記の)、「細部まで行き届いていないような、達成が現実的じゃない理想論ばかり、口にしていたことに気づいて、あんまり言わないようになっていく」だ。地に足のついていない話をやめる。手の届く範囲の話に収める。
もうひとつが、「厳密な理解が難しいからみんながふわっとした印象論や一般論で終わらせている話を、自分も許すようになっていく」になる。根拠とか本質とかの「なあなあ」でやられているところを、なあなあで済ますようになっていく。
どっちも「究極」を諦めて、ほどほどのラインを学んでいく話、なのは同じだ。わかっていないもの・わかっていないところへの態度、という観点で見れば、同種の話とも言えるだろう。同じ面はもちろんある。が登場するシーンや諦めるルートは、それぞれ、異なる。個人的には別の問題として捉えたい。「先走っていたことに気づいて、戻る」のと、「根本に立ち返りすぎていたので、戻る」の違い、みたいにも言えるかなあ。ともあれ、後者は、いまでも、あんまりやりたくない。
ファクトベースの現実論を主体にして話すようになるか、っていうのと、印象論や一般論に乗っかって話すようになるか、ってふうに表現したら、ぜんぜん異なる行動変化じゃん、とも思う。ただ、都度、切り分けて、接したり、話したりできているわけでもないので、そこはたぶん、あんまりよくはない。