世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年10月5日(日)現実を見つめるレンズ拡張機能

現実の見方

世界をどう見るかなんてこっちの勝手じゃん、って、もっと昔は素直に思えていたな、とは思った。気づいたら、「ふつう」の視点や見方が、けっこう奥のほうまで侵食してきてしまっていた。油断して侵入を許してしまった感がある。あまりにいろんなひとが、同じような観点や視座で、モノを、事態を、この世を語るので、さすがにそのうち麻痺してきて、さらには抵抗する気もちょっと失せてきて、こんなところでいいのかと、さもそれがとうぜんなのだと、そして、おそらくそうしていかねばならないのだと、信じこみ始めてしまった。押し止められなかった。

この世に生きる時間が(ひとと話す時間が)長くなればなるほど、押し止められなくなっていくんじゃないか、と想像はしていたし、どこまで防衛ラインを維持できるものなんだろう、と考えることもあった(不安がってもいた)のだけど、まあ、やっぱりというか、なんというか、いつしか、そこに築いていたはずの堤防は、決壊してしまっていた。気づけば混ざり込んでいて、区別できなくなっていた。その事実にも気づけなかった。

どういうときに、どういうことを思うべきなのか。なにを言われたときに、どう感じるべきなのか。なにを思ってなにを感じたときに、それをどう価値づけたり意味づけたりしたらよいのか。昔は、もっと自分勝手に、そして自由気ままに、やれていた。そういうときの空気を、きょう、なぜか、少しだけ思い出した。そのときの感覚や感触にちょっとだけ手を伸ばせるシーンがあった。

まあ、加齢や老化、成長で、変わらざるをえないところはあったのかもしれないが、とは思わなくもない。大事に思う誰かのために合わせていくべきシーンだってあったんだと思う。人体や生理には勝てんし、と感じて、防衛ラインを一部下げてしまっていたところもきっとあった。けど、それにしたって、侵食させすぎた感はある。やりすぎた。ひとに依存しすぎた。みんなと同じなら責任を負わなくてよいと、ラクをしようと思い始めてしまった。

世界観アドオン

俯瞰した地図や力学構造みたいなイメージで、世界を見つめる自由さが、たとえばもっとあった気はするし、どこまで人様の言葉を心に踏みこませるか(染みこませるか)も好き勝手にやっていた気はする。いずれにしても、現実を「真に受けすぎ」て「真っ当に受けとめすぎ」る感じにしてしまっていたなとは思う。そんな理由もない気はするのに、そうするようになってしまっていた。

ツラい・キツい・シンドイぞ、みたいなところが最近はなくもないが(主に仕事で)、このあたりも、なんというか、いわゆる「現実」に、べったりくっつきすぎるあまり、寄り添いすぎたり、同化・一体化しすぎたりして、癒着しすぎてしまっているせいで、余計にそんなことになってしまっている、という面があるような気はしている。このあたりに対し、かつての自由さや気ままさを取り戻せるところがあるのなら、一定、打開策として採用できるところはあるかもしれん、とは感じた。またちょっと持ってきて組みこみ直せるアドオンくらいにはできそう。