世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年10月4日(土)勝手に混ぜてしゃべってればなんとなく響きが広がる

敬愛

このひと凄いことをしているなあ、素敵なことをされているなあ、みたいに思ったときには、まあそのひとをちゃんと紹介したくなったりもする。世に知らしめんためにもっとしっかり"ひとまとまり"の記事を書かねば、とか考えてしまうシーンもなくはない。が、そんな固まった(静的な)文章をひとつ作り上げてみせるより、日常的なことばの端々に織り交ぜて(動的に)触れていったほうが、ほんとうに好きだという事実や、深い尊敬の気持ちが、きちんと伝わってくれるんじゃないか、とも感じた。

たとえば日記のなかで、ちょくちょく触れていれば、それだけで、その「大切」の響きはなかば勝手に伝わっていきそうにも思えるし、ときにそれは、整理整頓された紹介文よりもしっかり気持ちを伝えてくれたりするんじゃなかろうか。

情熱たっぷりのしっかりした説明を一回受けるより、ちょっとちょっと話の中に混ぜこんでこられていたほうが、最終的には、影響を受けやすい、というような事態は、これまで実際あった。だから話したいなら大仰にせず毎日ちょっとだけ勝手に話してればいいんじゃないの?とはなった。