世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年10月2日(木)おおむね向き合っていても、深部一つが放置されている

本気を出せば

なんらかのストーリーで、「本気を出せば自分だって」「まわりの人間や環境が悪いだけだ」とか思いこんでいる人間が、実際的な壁にぶつかり、のりこえられず、くじけ、絶望さえして、そうして、真実の自分を見つめ直すこととなり、自分と向き合って、ほんとうの自分を知り、努力することを決心して、最初からやりなおす。そうすることで、むしろうまくいきさえする、というシーンは、まあまあ見る。等身大の自分を怖れずに見つめて、一皮剥ける。

これがほんとうにぜんぜんできていないなあ、とちょくちょくは感じる。

「ある情景にしっかり感動させられながら、しかし、現実の自分は、まるで実践できていない(しようとしていない)」という状態が、どちらかというと好きではないので、可能な範囲で自分もそういうふうにありたい、行動したい、再現したい、って考えたりもするのだけど、突き詰めると、どこかでは、たぶん、距離を置いている。放置している。自分としっかり向き合おうとしていない範囲がある。物語は細部を捨象しているからそのままの再現は無理だよ、と思うところもなくはないが、それにしたって、できていないのは事実だと感じる。

向き合わない罪悪感の放置

逆に、自分と向き合う、みたいなシーンが物語上にあるからって、人類がどれくらいの割合というか、頻度?強度?深度?で、自分と向き合い、弱さと向き合い、変われているのかな、とも思う。思いはする。が、それはそれとして、これって、「それってどういう問題なんですか~?」「どれくらいが可能なんですか~?」と、問いの矛先を逸らし、自分と向き合うことからくる「怖さ」から逃げているだけ(そういう面もある)だよなあ、とも思う。実際、怖い。決心も追求も審判も怖い。ここに実際「怖さ」があるのにめんどくさがって放置している罪悪感の話な気もしてきた。