世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年9月6日(土)文字面で仲間面

評系

たとえば「批評」「評論」「書評」。共通する文字もあるし、やっていることもだいぶ似通っているため、基本的には混同していると思う。同種、同系統、同系列、とかって判断することが多かった。成果物も細かくは見分けづらいし。

ちゃんと区別できているかはいまでもあやしいが、同じ「種」や「系」、「文脈」上にあるものかはあやしいぞ、とは思えるようになった。批評家、評論家、書評家、って考えてみても、なんとなく、思惑も、狙いも、やりかたも、違うように見えてきている。

並べて話して良いのか

文字上の類似によって種類を混同させられているケースがけっこうあるなあ、と思ったのだった。出自がまるで違うのに(あるいは違うせいで、ぐうぜん)同じ漢字が採用されていて、そのせいで、「一緒に並べて話してよいもの」だと勘違いさせられていることが、たぶん、少なからずある。気づかず、同じ箱に入れて話している。仲間や同族だと思って同じ飼育法で接してしまっている。だからといって困らされることも、そこまでなかったりもするから、気づかないままのことも多いんだろう。微妙な差異がそこまで大きなトラブルを引き起こすこともそんなにはない。

ただ、細やかな差異にしっかり気づいて、つまり、同一視することなく丁寧に見定めて、それぞれ異なった手つきであつかえるようになると、動きや考えが、そこで一段、変わってくる。そこがひとつの分水嶺になってきたりする。たとえば、ときに、ほかのひととの差もつけられる。そういった"気づき"は持っていてもいいな、とは思うしだいだ。

乱暴な手つきで触れていて、とくに困らなかったのだとしても、ともあれ繊細にあつかってみせることで、価値を生み出せたり、それこそ敬意みたいなものを伝えられたりするのなら、それもよい、みたいな希望も持っているかな。