愛があると思わせる
しっかりした敬愛や信頼を抱かせてもらえれば、罵倒とか体罰ですらたぶんいうほど拒否感ない、みたいなところがあるのかなと自覚することはあって、だからまあ、洗脳、狂信、依存などには注意しておきたい、と考えてみたりもしている。好きなひとのためなら自己犠牲も厭わない、みたいに言えば、聞こえはよい。さらによくいうなら、慈愛みたいなものとして捉えることだって可能だろう。自分がよいと思っていたらそれだけで思考停止できてしまう、といった形態でもたぶん解釈できる。
それなりの気持ちを抱くことができていれば、思考停止して停滞しながら無頓着に奉仕できる。そんなスタンスを持ちうる自覚はあるわけで、にもかかわらず、いま目の前にこんなにも拒否したくなる空間があるのであれば、そりゃもうよっぽど敬愛も信頼もないんだろうな、って、逆算的に自分の心境を推し量っていた。うーん、しっくりくるような気はしなくもない。あんまりうまく自覚できていないとしても、実はそれほど(ぼくにとっては)酷な場所に置かれているのかもしれない。だったらもうその可能性を前提に開き直って、というか事実認定して意思を固めて、選択肢を選び直していったほうがいいのかな、とは思う。