世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年8月25日(月)同じ素材がどう仕上げられているか

新鮮みに釣られる

同じ素材であっても切り口しだいで別の話にすら見えてくる。おもしろさも、問題の空気だって、変わる。重大性や懸念点だって変わって見える。みんなに真剣に向き合ってもらいたかったり、誰かに楽しく笑ってもらおうとしていたり、「話」の狙いはさまざまで、その目的のもとでの成功率も、切り口によっておおきく変わってくるのだろうけれど、ともあれ、そこにある「題材」と「話」の価値を、混同することなく、認知しておきたいものだ、というふうには、あらためて考えていた。

なんというか、革新的な側面で興味深く語られたからといって、それを重大事と思いすぎないようにしたい。逆に、陳腐な語られかたをした問題を舐めないようにもしたい。

少なくとも、ぼくにとっての新しさ(出会いの順番)だけで、問題のおおきさを誤認しないようにしたい、とは思ったのだった。

語りの巧みさで価値も釣られる

別の話になる気もするが、たとえば誰かがしていた「学ぶ意味」の話がおもしろかったら、"学ぶこと"が輝いて見えてくる気もしてしまう。けどまあ、そうではない。紹介者が素敵だったら紹介されたひとも素敵そうに見えてくるけど、そこには一定の誤解がある。もちろん、つなげて考えたってかまわないのだけど、しかしそれは"つなげている"だけであって、やっぱり、それそのものではない。「それそのもの」がほんとうに在るのかどうか、ちょっとあやしくはあるのだけど、でもだからってイコールは違うじゃん、とは思う。そもそも、輝くような「X語り」があったとして、「X」が決してないことだって、とうぜんありうる。

とはいえ、「それについての語りとそれそのものの価値が混じり合っている」のは、まあよい、まあしょうがないか、って気もしなくはない。同時に顕現してきたそのふたつを綺麗に切り分けることなんてできなそう、とは思えるからだ。お題目として「しっかり見極めてまいりましょう」とか言っていても始まらないと思う。

ただ、価値を見る自分側のまなざしがどちら(より)に向いているのか、を、把握しようとする意志自体は、けっこう大事なんじゃないかな~、と思うところはある。