世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年8月24日(日)いまの感じを、昨日にも押しつける

赦されるものは多くてよい

たとえば昨日は「緑が最高だ!」と感じていたのを憶えていて、今日は素直に「赤こそ至高!」と感じているときに、昨日の日記を書こうとしたら、たぶん、「緑ってすばらしい」というような文章を置きたくなってしまうはずなのだけど、別にそこで、「赤がいちばんいいぜ」って書いたって、ダメじゃないはずじゃん、とは思う。少なくとも日記ならそれくらい許されてよい。というか、許されないのはダメだと思う。

個人の日記が、顛末書や歴史書と同じようなノリで書かれなきゃいけないなんてことはない、はず。過去の事実であるかどうか、正しい記憶であるかどうか、ばかりが優先される空間を押しつけられるのも意味わからんし。間違いや捏造やウソを混ぜこんではいけないルールなんてなくてよい。だからといって別に間違いや捏造やウソをかならずしも混ぜたいわけじゃあないし、ルール無用を称揚したいわけでもないのだけど、しかし、「日記」という舞台のうえで、時系列に縛られすぎるのは、なんか違和感がある。

今で塗り替える

書き手が「今」を最優先したいなら、「今」の気持ちによって、「昔」を塗り替えたっていい。事実関係を気にするならともかく、「なにを思っていたか」なんて、それこそ、一番、好き勝手に描いてしまってよいところだろう。整合性がとれなくなって困るというなら、それはそれで、好きにつじつまを合わせてくれればよい。

その時点がどれほどか

なんか、「その時点の事実」に重きを置きすぎている雰囲気を感じ取ったため、ほどよくヒビをいれておこうと思って、書いた。記憶がそんなに信頼できるものなのか誰にもわからない。実際そうだったかの保証もないのに縛られすぎる必要はない。