自分にできることを(って思えるだけでもだいぶ回復したみたいな状態)
実態として、なんとなくなにかにおびえ、縮こまり、畏まって、目立たないよう顔を伏せている、みたいな現状はあるよなと思う。できるだけ自分をさらけ出さない。多少、見限られても見下されても、下手な隙を見せないよう、派手な動きは見せない。そのほうがマシ。なんというか、自由闊達な心情のもと、さらした「素直な自分」「本当に自分」めいたものを、攻撃されたくない。痛そう。
そういった事態はあんまりよくないか、と思って、対策のため分析しようとすると、どうしたって「おびえさせてくるもの」を見やることになる。けど、そうしたところで、すぐにそれをどうにかできるわけでもない。こちらから都合よく変えられるわけでもない。たとえば他人はそうカンタンには変わってくれない。変わる義務もない。結果、責任の押し付け合いみたいになる。
たとえ相手が悪いにせよ、もしくはぼくが悪いにせよ、「悪いほうが――より責任のあるほうが、直しましょう」というところを起点にしようとしても、そうそう改善にはつながらない。正当化の理由を探していくばかりじゃ(互いに自分に都合のよい事実や解釈を集め始めるせいで)、余計に話がこじれたりもしそうだし。ほんとうになんとかするなら、ほかのルートも模索していくしかない。
おびえも御す
なんとかおびえや縮こまりも御してはいきたい。理屈のうえではそう思っていたとしても、反射的に、身体的に、怖がってしまうところはやっぱりあって、避けがたい。音とか顔とかどうしても反応してしまう。 それを言葉だけで説得しようとしても無駄かな、とまでは言わずとも、無理はあるんだろう、とは思う。
都合よくはいかない。体験とか解釈とか身体的なところも巻きこみながら、都度、想起されるものを改ざんさせるよう、働きかけていくしかないんだと思う。別の意味がゆっくりと形成されていくよう、自然体の意識を、ちょっとずつ書き換えていくしかない。
上手い手法か、適切な手法かは、まあ不明瞭だ。成功も保証できない。けど、結果として眺めて見れば、そういうことができていた過去事例もなくはないので、それを参考に、試してみたくはある。あるいは武器にしてみたい。
イメージの問題
要はイメージの調整なんだよな、とは感じる。どうやってイメージを書き換えるか。
経験則でいえば、落ち着いた場で、関係者の(いま思いつくような主たる相手の)意見や見解を、丁寧に聞けたら、それができるだけで、ぜんぜん違うんだけどな、とは感じる。
思いや気持ちに関する状況が、いまいち見当つかないと感じることが主要因ではるので(人格や観点が違いすぎて想像がおよばないが大問題なので)、そこで、余計に、おっかなびっくりになっているところはあって、そこをどうにかしたらよい。そういうところに核心や重心があるとは思っている。
対話。意見交換。そうしやって、相手にちゃんと向き合って、話を聞き取ることって、自分の意識の書き換えを促してくれる最たるもののひとつなんだよな~、っていうような経験則を、そういえば思い出した。そういった事例すら、最近は出くわすことがなくなっていて、そこにある効果を忘れかけていた。